58 posts categorized "本・論文"

2008.05.19

Geary, D.C.「心の起源」

Geary, D.C."The Origin of Mind," APA, 2004.

(邦訳:小田亮訳「心の起源」培風館)

昔、ドーキンスの「利己的な遺伝子」を読んだときに、進化論的な視点を動物の本能的な行動はともかく、人間の社会的な営みにまで何でもあてはめてしまうのには無理があると思った。遺伝子のふるまいと人間の社会的な行動の間のメカニズムがブラックボックスになっていてほとんど証拠もなかった。それに比べて、本書では、脳の進化-脳の機能-個体の社会的な行動というリンクができていてずっと説得力がある。行動経済学で取り扱っている人間の非合理性も、脳の進化という観点からずいぶん説明できるはずである。ただし、肝心の脳の機能の解明はまだまだ途上であるので、現時点でなされている人間の社会的な行動の説明付けはまだまだ仮説に過ぎないことに注意する必要はある。

本書の核心は、人間の心の働きにはヒューリティクスで無意識的に処理する部分と、意識的にコントロールされた問題解決をする部分があるという経営学ではおなじみのモデルに心の進化論を結びつけた6章以降にある。ヒューリスティクスで解決する心の働きは早い時期に進化したもので動物の心の働きはほとんどこれに支配されている。一方、現人類は、理性で意識的にコントロールする部分を非常に発達させ、環境が大きく変わった時などにヒューリスティクスが発動することを抑え、抽象的な物事を考えることができたため、生き残りの確率を高めることができた。ただし、後者の情報処理は非常にエネルギーを食うし、作業記憶を利用して順次処理しなくてはならないのでどうしても限界がある。だから、限定合理性なのである。

私が本書を読んではっとしたのは、人間が自動的に処理する部分というのは、暗黙的、非抽象的で、文脈依存、並行処理であるという点である。組織論の問題解決モデルでは、自動的にプログラミングされたヒューリスティクスというのは、コンピュータのアナロジーのせいでむしろ明示的、抽象的、非文脈依存的、局所的な処理というイメージをなんとなく持っていたのである。考えてみれば、意識的なコントロールされた問題解決こそがそのような特性を持っているのである。

人間が、論理ではとらえきれないものも、直観的に理解するというのは、古く進化した部分でおこなっている可能性が高い。世間でいう暗黙知も、何か高尚な心の働きではなく、ほとんど動物に近い部分でおこなっていると捉えたら納得がいく。なるほど。これはとても示唆的である。

本書の主張とは正反対かもしれないが、私は、人間がいくら合理的になれたとしても解決できない問題がある、というよりも、ほとんどの場合、完全に合理的に解決することが解決ではないと思っている。確かに、脱文脈的で抽象的な思考ができることが人類を繁栄に導いたが、おそらく今後のさらなる生存のためは、人間が古くから持っている、文脈依存的並行処理能力を、ある程度意識的にコントロールしながらも、もっと活用することにかかっているのではないかと思うのである。

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2008.05.05

佐伯胖「認知科学の方法」

佐伯胖「認知科学の方法」東京大学出版会, 2007年.

1980年代に出された認知科学選書の新装版、コレクション認知科学の第1巻。このシリーズは全部読もうと思っている。

本書は、著者が自身のメタ理論に到達するまでのドラマとしても読むことができ、分野を問わず、院生や若い研究者がメタ理論とは何かを知るのに最適である。もちろん、著者が到達した地点は立ち位置の一つにすぎず、研究者がそれぞれ探究していくものである。論文にいつも明確に書くかどうかは別の問題として、自らの立ち位置と、その根っこに無自覚なのが一番いけない。

つくづく思ったのは、社会科学の各分野はメタ理論のレベルでは非常に密接につながっているということである。それぞれの分野は、同じ土壌に生えた草木のようなものである。合理主義も生態学主義も情報処理アプローチも、経営学の根本にもしっかり流れている。

経営学について言えば、メタ理論に常に自覚的で、メタ理論に挑戦する研究をする姿勢を持つことが大切なのはまったく同じだが、メタ理論そのものを経営学や組織論の枠内で作ろうとしないほうがよいと私は考えている。これには異論がすごくあるだろうが、時代や現象に常に寄り添って経営や組織に関わる諸問題を解決しようとする特性があることから、妙に学問として成立させようとしてメタ理論とは言えないものをメタ理論と呼んでしまうおそれがあると思うからだ。メタ理論は社会科学で広く共有するものととらえて、小さく仕切ってしまわないほうがよい。

学生の論文や投稿論文などを読んでいると、明らかに多くの分野で言われているようなことを、経営学や組織論の文献の中では言われていないので(それも本当ではないことが多いが)理論的新規性があるのだと主張する人を少なからず見かける。異分野の文献までレビューするのはつらいかもしれないが、現実に密着した問題を扱う学問であるからこそ、それを他の分野よりもやらなくてはならない

理論的貢献を狭い学問分野の枠中でしか考えない人が増えると、その学問分野の将来性は危うくなると思う。反対に、自分の学問分野の存在意義なぞ考える前に、その根っこを広い視野でとらえ、ひたすらおもしろい研究を目指していれば、気がつかないうちにその分野から土壌全体に影響を及ぼす研究が出てくることだろう。

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2008.04.18

渡部信一編著「日本の『わざ』をデジタルで伝える」

渡部信一編著「日本の『わざ』をデジタルで伝える」大修館書店, 2007年.

技能の伝承のデジタル支援について、ここ半年ほどいろいろ考えていた仮説や疑問のかなりの部分がこの本の中に提示されていた。私の考えていることは、それほどピント外れではなかったようである。本のレビューだけでなく研究のためのメモも兼ねているので少し長くなるが書いておく。

本書は渡部信一氏と民俗芸能のデジタル化を実践している方や研究者の対談形式で進んでいくが、議論の一つの焦点は、伝統芸能のような「わざ」の伝承において、デジタル技術でできることとできないことの境目である。できるできないと分けるよりも、旧来のコミュニケーションの仕方やさまざまな他の仕掛けとの組み合わせで新しいあり方をどう生み出していくかと考えたほうがよいとは思うが、とりあえずデジタル技術だけでは実現できないこと、見落とされがちなことをよく知ることも必要だろう。

その第1は、私も近頃まさにそのことを考えていたのだが、外形的な現象(例えば踊りならば動き)を再現することと、伝えるべきことを表現することは異なり、デジタル技術は前者は得意であるが、後者は伝えるべきことが論理で明示的にあらわらすことができない領域にある場合難しいという点である。2番目の対談に登場する生田久美子氏は前者を「形」後者を「型」と表現している。デジタル技術は形は表現できるが型そのものを表現できない。実は、デジタル技術だけでなく、あらゆるアナログの道具でも、言語でも、型そのものは表現できないと思う。道具や言語にできるのは型の理解を助けることのみで、型の伝承は常に不完全であるという宿命を持っているのかもしれない。(でも、不完全であることは、おそらくいけないことではない。)

本書に、重いものを持って動かすときの動きと軽いものを持って動かす動きは動作する人にとってはかなり違うはずだがモーションキャプチャでは同じA地点からB地点からの動きしかとらえられないのではないかという疑問に対し、モーションキャプチャによる伝統芸能の記録している方が、手だけでなく全身の動きを記録すれば例えば重いものを動かしているときは腰が残っているといった違いが出るだろうと答えるエピソードがある。

デジタル化の精度が高くし、また、デジタル化する範囲も広くすれば、現象の記録の不完全性による問題はかなりなくせるだろう。しかし、ここで問題が一つ残る。伝承したかったのは、AからBへの微妙な動かし方の差だったのだろうか。例えば、AからBへの手の動かし方が腰の動きとの連動も含めて正確にコピーされていても、型から総合的に見るとまったく適切でない動きだと評価されることもあるかもしれない。反対に、型を押さえていれば、手はAからCへ動かしてもよいのかもしれない。では、何が型なのかをどうやって知ればよいのだろうか。

私は、第3者(例えば研究者)が型の本質を分析して、これが型であるとモデルを提示するというアプローチでは成功しないだろうと考えている。

ではどうしたらよいかという点については、民俗芸能の踊りをモーションキャプチャをしてCG化したDVDが2種類に分けられるという話にそのヒントが隠されているような気がしている。一つは比較的平易にアレンジした踊りを誰にでも踊れるようにわかりやすく教えるためのDVD、もう一つは民俗芸能を保存することを目的とした、特に教え方というものがないDVDである。前者は家や運動会で楽しく踊るためのものであるから、形のコピーで目的を達せられるが、後者は型の伝承まで踏み込んでいるため、DVD製作者が教え方まで用意できないのである。つまり、デジタル技術の提供者の役割は、材料の提供であって、解釈は習う人と教える人(おそらくわざの伝承の域に達するには独習では難しいだろう)に任せたほうがよい。

このことは、アーカイブとしてのデジタル化と伝承のためのデジタル化が異なるという論点にも深く関係している。本書ではアーカイブでは定型化する必要があるという意見も出てくるが、私はそれが本質ではなくて、おそらくアーカイブで重要なのは見る人にとっての再現性である。一方、伝承で重要なのは伝授者の型の理解を助けることであり、そのために必要であるならば再現性が犠牲にされてもよい。前者はできるだけ多様で精度の高い情報をとることで現在の技術水準でもかなりのものが達成できるが、後者は実践者の試行錯誤が必要で、技術はその試行錯誤を支援する存在でなくてはうまくいかない。

デジタル技術だけではなかなか実現できないことの第2は、伝承がおこなわれる舞台装置(場所の雰囲気、道具立て、儀式、師匠と弟子の人間関係、地域全体の教育の仕組み、神様との関係・・・)である。わざの伝承はこれまでも舞台装置とセットでおこなわれてきたし、今後も伝承に何らかの舞台装置は欠かせないだろうという点である。文化的な文脈の理解が欠かせないようなわざを完全なデジタル環境で伝承することが難しいであろう有力な理由がここにある。ただし、技術の変化、また時代環境によって当然舞台装置のあり方は常に変わっていくものであるから、その一部がデジタル技術で用意されてもおかしくはない。

第3は、学習対象と学習内容の全体性である。西洋芸術の場合、わざの体系は技術の要素に分解され、易しいものから難しいものへと順番に体系だてて教えられるが、日本のわざの教授ではまず作法のようなものを教えられてから、いきなり作品から入り、ひたすら師匠の模倣をさせられる。形の模倣を繰り返すうち自然に型が身につき、「身体があまって」きて、次第に自分なりのあやがつけられるようになるという。韓国舞踊でも名人はかなり崩して即興的に踊っていて、それが評価されるが、これも基本の上にある趣きの一種であろう。だとすればなおさら形だけを保存しても意味がないということになる。

師匠の弟子に対する指導の仕方もダメだということははっきりと言われても、その根拠が明確には示されない。また、伝統的に弟子が師匠の日常生活をともにする(世界への潜入する)ことで、個々の技術だけでなく、生活態度や実践の場に関わる人々やモノとの関係性全体を学び取る。学習対象も、学習の仕方も全体性が要求されることは、西洋流に比べて構造化しにくく、システム化しにくいことは明らかである。

一方、デジタル技術が何かの機能を代替するだけでなく、デジタル技術を使うことによって何かが生み出される側面もある。

まず、モデル化の過程で情報が欠落することは、デジタル化の利点でもある。例えば、踊りの初心者にとっては師匠の動きは複雑すぎてそのまま再現することはできないし、自分の技量にあったレベルに簡略化するにしてもどこをまねしたらよいのかの判断がつかない。もちろん師匠はそこのところを繰り返し伝えようとするわけであるが、言葉や身振りだけよりも、CGなどでポイントとなるところがわかりやすく表現されればずいぶん助けになる。それが形の模倣に過ぎなくても、型の理解の第一歩に違いない。

また、本書に出てくる、舞台裏で役者が演じる動きをモーションキャプチャしてCG化し、舞台上の役者と共演させる試みなど、デジタル技術が表現の新しい可能性を生み出すことも当然ある。

さらに、本書の中にも少し出てきて私が大変重要だと思っていることは、デジタル技術によって習う人が型を理解することを助けるだけでなく、伝えようとしている人自身が型の本質に新たな発見をする、という点である。モデル自身が型の本質を理解してつくられていなくても、形を再現し、かつそれを見やすくする工夫がなされるときに、非言語的な領域で理解しているものがより明確なかたちで理解できるようになる(依然非言語的かもしれないが)、というのは必ずあると思う。師匠もまた学習者である。

ところで、本書では、4章に出てくる漢方医学の伝承の研究をしている川口陽徳氏との対談が滅法おもしろい。漢方医学も病気にあえて病名をつけず、全体としてとらえ、その伝承方法も名人と生活を共にして学ぶという伝統的な方法であったが、幕末から明治期にかけて漢方医道の伝統的な伝承基盤がゆらいだ時代に、(浅田飴の)名人浅田宗伯は、医道を書物によって学ぶことのできる医学、診断技法の医術、心構えや日常の関係性すべてを包括した医道に分節化することで、門人に医道の全体性を明確に意識させた。医道の伝承とは、医者と患者、書物やその他の要素との関係性を模倣し学習する場を提供することであったという見方である。

川口氏の研究内容もおもしろいが、特にすばらしいのは渡部氏との対談におけるその適切なつっこみである。(出版当時まだ博士課程在学中というのにはびっくりである。)一例をあげると、デジタル化出来るからと言ってデジタル化することが即効率的であるとみるのは間違いではないかという指摘はまさにその通り。わざをとりまく現象にはあまりに潜在的な選択肢が多すぎてそれを第三者がモデル化するのは思った以上に非効率的なのである。やはり、意味を見つけるのは当事者に任せたほうがよい。それにはそれなりの道具の用意の仕方のノウハウというものがあるはずなのだ。

最後に、編著者の渡部氏のデジタル化という言葉の使い方が、記号化すること、論理として操作できることと捉えられていて、実はこれはデジタル技術を使うこととイコールではなく、私の意見としては概念的な混乱を呼びやすい定義の仕方ではないかと思う。確かにデジタル化すると、コンピュータにとっては記号化されるのだが、人間にとっては記号化されるとは限らないという点が大事なのだと思っている。

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2008.03.21

Leonard, D. and Swap, W. 「経験知を伝える技術」

Leonard, D. and Swap, W."Deep Smarts: How to Cultivate and Transfer Endurig Business Wisdom," Havard Business School Press, 2005.

(邦訳:池村千秋訳「経験知を伝える技術」ランダムハウス講談社)

私はDorothy Leonardは日本でももっと頻繁に引用され、話題になっても良い方だと思う。「知識の源泉」などはナレッジマネジメントの定番教科書になるだけの価値がある。

本書では、米国のITバブルの時にIT起業家が真に必要としていた知識、deep smartsの獲得、形成、移転から正面から取り組んでいる。

ディープスマートは、その人の直接の経験に立脚し、暗黙の知識に基づく洞察を生み出し、その人の信念と社会的影響により形作られる強力な専門知識だ。・・個々の情報よりノウハウに基礎を置く。複雑な相関関係を把握してシステム全体の把握に基づく専門的な判断を迅速に下し、必要に応じてシステムの細部にも踏み込んで把握できる能力である。その能力は正式の教育だけでは身につかないが、計画的に育むことはできるし、献身的に努力すれば、他人に移転することも再創造を促すこともできる。(邦訳16ページ)

なんだ何も目新しい概念ではないじゃないかと感じるかもしれない。確かに目新しくはないが、何かと過小評価されたり、反対に、ブラックボックスのまま神棚に祭られたりされやすい概念であるため、改めて丁寧に吟味することには非常に意味がある。

ディープスマートの定義を少し何でもありにしすぎてきるような気がするが、私はここでのポイントは、個々の情報ではなく、ものごとの関係を把握し、他に応用できる能力、というところにあると思う。暗黙の部分も多いが、明示的にできる部分もあるだろう。また、他人に移転可能であり、再創造を促すことができると考えていることが重要である。

本書にもあるとおり、deep smartsを得る方法の基本は、深い経験を持った人から適切な指導を受けながら実体験を通じて学ぶことである。適切な指導を受けても、初心者がエキスパートになるにはざっと10年かかるという言う。deep smartsを得るには手間も時間もかかり、多少古臭いと思えるような方法が必要だということは、常に最新の技術知識が必要とされるIT産業でさえ決して例外ではなく、それを過少評価したために多くのIT企業が行き詰ったのだというのが本書のメッセージである。

この10年というのは、例えば研究者の世界でも感覚的にぴんとくる。学部の後半2年、修士2年、博士3年、よい指導者の元で一生懸命勉強しても、かなり優秀な人でもまだエキスパートにはなっていない。十分に訓練された人は、だいたい博士をとってから3年から5年ぐらいで一人前になるような気がする。ざっと10年というのは適切な勘定だと思う。

伝統的には、徒弟制がdeep smartsの伝承するしくみとしての役割を果たしてきたが、社会のしくみや個人の考え方自体が変化しているし、技術の急速な変化やグローバルな相互作用など環境が激変している現在の状況に合ったdeep smartsを獲得、形成、移転するしくみをつくる必要がある。

本書が提案されているのは、一言で言えば組織のdeep smartsの獲得、形成、移転について意識的になるということである。

・まず、自分が知らないことと他人が知っていることのギャップを知ることから始まる。その人、その組織に足りない知識を過小評価しないようにし、また、組織内の知識ギャップをなくしていく。

・deep smartを得るには経験の量と幅が欠かせない。ただし、すべてのケースを経験できないのでシミュレーションをうまく使う。また、一人で何もかも知っている必要はない。誰が何を知っているかというノウフーもdeep smartの一部である。

・ただ経験するだけではdeep smartsは形成されない。経験を受け止め体系化するレセプターが形成されなければならない。

・経験を持った人(知識コーチ)から経験の浅い人への指導の元で経験することが非常に効果的である。
 -教える意欲と学ぶ側の意欲、態度がもちろん必要条件である。自発的な師弟関係が望ましい。
 -端的な指示や経験則、体験談は役に立つ場合もあるが、経験しながらの指導に勝るものはない。
 -知識コーチは、経験のレパートリーを増やす計画に関するアドバイスと結果に対するフィードバックを与え、学習者がやみくもに経験することを避ける。
 -知識コーチは必ずしもエキスパートのレベルに達していなくてもよい。限界はもちろんあるが、少し先輩が少し後輩に教えられることはある。

・本業のプロジェクトに教育上の目的も持たせる、二重の目的を担うプロジェクトを考えてみる。

今後研究していかなければいけないことは、いろいろある。私が興味を持っているのは、いろいろなものごとのつながり(多くは明確に言語化できない)についてある人が理解したとして、それを他の人に理解してもらうにはどうしたらよいかということである。経験に基づく指導が効果的というだけではまだ箱が大きすぎる。もう少し箱の中身を、一部でよいから覗いていみたい。

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2008.02.19

Meyrowitz, J. 「場所感の喪失」上

Meyrowitz, J. "No Sense of Place: The Impact of Electronic Media on Social Behavior," Oxford Univ. Press, 1985.

(邦訳:安川一・高山啓子・上谷香陽訳「場所感の喪失」上)

邦訳の下巻はまだ出ていないようだが(原著も読んでいないが)、おそらく上巻に主要な主張はだいたい含まれていると思う。

電子メディア(といっても1980年代前半であるから主にテレビ)の社会的なインパクトを、人々は状況に応じて役割を演じ分けるのだというゴフマンの理論を主に援用しつつ分析している。この本の出版当時の状況よりも、むしろインターネットの普及した現在こそ、この観点は大きな意味を持っている。

状況というとき通常想定する、物理的な空間に結びついた対面的な環境ではなく、相手の行動を判断し、相手に自分の行動を判断してもらうための社会的情報の流れる範囲を状況と定義していることから非常に今日的である。著者は、電子メディア(主にテレビ)には

・従来は年齢、性別、職業、階級等で分断されていた人々が同じ情報を共有するようになる。

・メッセージがフォーマルで非個人的な情報からインフォーマルで個人的な情報へ変移する。

・意図的な伝達を目的とした言語やシンボルによるコミュニケーションより、人々が環境に居るだけで生まれる身振り、信号、発声、徴表、動作である「表出」の比重が増える。

・物理的な場所と社会的な場所(上で述べた「状況」)の分離が顕著になる。

といった性質があり、(情報共有によって集団間の差異について意識が高まるため)マイノリティ集団の勢力増大、国際人権団体や環境団体など場所なきところからの視界を持つ新しいタイプの集団の成長、地域性の希薄化、社会化の段階のくずれ(成員予備軍と成員の間の対等化)、権威の喪失などの社会的な影響をもたらしたと分析している。

インターネットはテレビよりもかなり使い方に多様性があるメディアなので、公的な情報共有と特定グループ内での情報共有、フォーマルとインフォーマル、意図的な伝達と表出については両方を強化することができるため、そのインパクトは個々には一概には言えない。しかし、大きな視点でみれば、情報は広く共有される方向へ、インフォーマルな情報が広まる方向へ、意図的な伝達だけでなく表出が伝えられる方向に変化していると言えるだろう。

もっと理論的な深化が期待されるのは、物理的な場所と社会的な場所の分離についてである。ネットが地理的、物理的な制約を取り外したということはよく言うが、そうではなくて、確かに社会的な場所が物理的な場所とずれてしまったのだと考えるほうが理論的に実りがある。

インフォーマル、表出メッセージのインパクトについても、まだまだ研究が足りない。かつてインフォーマルだったものが世の中に喜んでさらされるようになったものの典型はブログであるが、普通の人の日記を世界中の人が喜んで読むようになるなど、インターネット以前に誰が考えただろうか。携帯メールのトラフィックのかなりの部分は意図の伝達というよりも表出メッセージであるに違いない。

ところで、レビューはしなかったがちょうど少し前にゴフマンの本を読んでいて、前回レビューした主観と客観の分離バイアスがかなり強いところがちょっと気になっていた。他人に対してある印象を与えるために人はかなりの努力をして舞台装置を設定し、役割を演じているという世界は、まさに分割不能な実体としての個とそれを外から捉える視点から成り立っている。村上氏の言うとおり、主観と客観を分けて考える伝統があるからこそ、公的・私的、個人的・非個人的、フォーマル・インフォーマルという分け方も成り立つのである。このあたり、文化差もでるであろうし、ひょっとすると、主観と客観の分離そのものにも電子メディアは影響を与えているかもしれない。ネットの住民が時として驚くほど柔らかな個の形、連帯の形を見せるのを見ていると何かがそこにあるような気がしている。

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2008.02.14

村上陽一郎「近代科学を超えて」

村上陽一郎「近代科学を超えて」講談社学術文庫、1986年.

1970年代初めの論文をまとめたものだが、今読んでも古びていない。ということは、近代科学が本質的に抱える問題点はいまだに解消されていないということだ。

これも何も新しい話ではないが、社会科学では自然科学に倣った実証主義批判がずっと根強くある。実証主義をどう定義するかに大きく依ると思うのだが、私はこの本を読んで、固い要素還元主義こそが批判されるべきなのだなと改めて思った。

世の中のすべてのものが原子(最近は素粒子、さらにヒモ?)のような要素とその相互関係のみに分解できるというのは、村上氏が指摘するように、西洋の長い歴史的背景に根付いた強力なバイアスなのである。自然科学でさえそのバイアスによる限界に突き当たっているのだから、社会科学はなおさら固い要素還元主義に対して斜に構えていなければならない。

私が「固い」という形容詞をつけるのは、思考の一つの手法として、要素還元的な発想をし、そのように表現してみるのは悪くはないと思っているからだ。このバイアスがニュートン力学をはじめ数々の成果を上げてきたのは確かであるし、いまや高等教育を受けた世界中の人がこのバイアスになじんでいるのであるから何よりコミュニケーションしやすい。しかし、あくまでそのように考えみたり、そのように表現した方が人に伝わりやすいときの一つの手段として、である。

東洋的な世界観が西洋的なバイアスに行き詰った科学に進化をもたらす可能性があるとみる著者のビジョンもいまだに有効だと思う。いくら高等教育で西洋的なバイアスに基づいた世界観を叩き込まれても、東洋の人々は要素還元的で主観と客観をはっきり分離する考え方とはどこか違う世界観を持っている。ここでいう東洋がどこからどこまでを差すのかははっきりとわからないし、もちろん大きな多様性があるだろう。しかし、韓国にいて日本と韓国の違いや共通点にいろいろ実際に触れていると、やはりはっきりとはわからないが何か大きな共通した流れがそこにあることを感じる。

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2008.01.26

宮川公男・大守隆「ソーシャル・キャピタル」

宮川公男・大守隆「ソーシャル・キャピタル」東洋経済、2004年.

社会関係資本関連の本もいろいろレビューしてきた(「孤独なボウリング」「哲学する民主主義」「コミュニティ」「遠距離交際と近所づきあい)のでごく簡単に。

1章の宮川公男氏のソーシャル・キャピタル論が政策等に与えた影響についての概観は秀逸である。理論(少なくとも社会科学の理論)が社会情勢から中立的ではあり得ないことがよくわかる。

各論では、社会関係資本を構成する重要概念である信頼についての4章のアスレーナーの議論はおもしろかった。信頼概念を普遍化信頼、特定化信頼に分け、現代においては前者こそ重要という議論は、パットナムの橋渡し型と結束型のコミュニティ、社会心理学分野での山岸俊男氏の信頼と安心は異なるという議論などに対応し、新しい話ではない。しかし、もう1つの次元として、人はどのように行動すべきかという道徳的な信頼と、人がどう行動するかについての予測である戦略的な信頼を分け、特定のグループではなくより広い範囲の人を信頼する普遍化信頼においては前者が重要で、道徳的な信頼はパットナムが重視しているような市民的なボランティア組織への参加によっては醸成されない(逆の因果関係はあるが)という主張はなかなか刺激的だ。

私自身は、アスレーナーが道徳的信頼は幼少期の環境に左右され、大人になってからの市民団体での活動などでの経験はあまり役に立たないと見ているのには賛成できない(人間は大人になってからも結構学習するものだ)が、市民団体への参加率などは一面を捉えているのにすぎないというのはその通りであろう。また、一般信頼性を高めるには、子供のときに異質なバックグランドを持つ人々と触れ合う環境が大切というのは間違いない。昔よりも外国の方が日本にたくさん来ているのだから、英語の早期教育なんかよりも子供たちが外国の方にごく自然とつきあう環境をつくる方が重要だと思う。

一般信頼の醸成に社会的な平等が大切というのは日本の状況に即して考えるとよく検討してみるに値する課題である。外れ値はあるにしても、一般には貧しい国は社会的な不平等が大きく、社会が豊かになるにつれ平等化が進み、さらに豊かになるとまた不平等化が進む。北欧諸国などは豊かになっても社会的平等を制度的に維持する道をとり、米国は経済の大きさに比してもかなり不平等な社会である。アスレーナーは、社会関係資本の見地から日本は経済格差をもっとなくす政策をとるべきであると見ている。

気をつけなくてはいけないと思うのは、経済格差をなくす方向で政策を考えるにしても、それが一般信頼を醸成するかたちにしなくてはならないということである。他人は私と異なる、皆それぞれに異なるという基本認識は、一般信頼や橋渡し型コミュニティには欠かせない。格差を縮めなくてはいけないと言うときに、それが経済格差や社会的な特権の客観的な是正を超えて、人と私は違ってはいけない、ちょっとした違いに異常に敏感になる、異質な存在を締め出そうとするという心理性向を強化してはいけないと思う。少し乱暴な二分法で言うと、理性のレベルでは資源の社会的分配の平等化をすすめても、感情のレベルではもっと異質性を許容する社会をつくるということである。

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2008.01.25

Gawer, A. and M.A. Cusumano「プラットフォームリーダーシップ」

Gawer, A. and M.A. Cusumano "Platform Leadership," Harvard Business School Press, 2002.

(邦訳:小林敏男監訳「プラットフォームリーダーシップ」有斐閣)

非常に重要な領域を扱っているのに関わらず、プラットフォームの定義が非常に広い(下位システムが相互にイノベーションを創発しあう進化するシステム)ため、概念的な切り口が物足りないのが惜しい。

事例としては、インテルの話が抜群に面白い。

1980年代にIBMがPCシステムのインターフェースをオープン化して以来しばらく混沌とした状態が続いていた業界において、インテルが業界のリーダシップをとるようになったのは、一般にはCPUという一番重要なキーデバイスを押さえていたからと考えがちである。しかし、よく考えてみると、オープンアーキテクチャにおいては単に重要な部品を製造しているからといってリーダーシップを発揮できるとは限らない。本書を読むと、インテルは、デザインルールを作り出し、業界に影響力を高めるためにはっきりとしたビジョンに基づいて社内社外でかなり意識的な行動をとっていたことがよくわかる。

最初の転機となったPCIバスの開発は、直接動機としてはCPUの性能をいくら高めても部品相互の接続のインターフェースの性能が悪くてシステム全体のパフォーマンスが上がらないというボトルネックを解消するためであっただろう。インテルはこの仕様をオープンにして業界の囲い込みの手段としては使わず、また、直接課金することによって開発費用を回収しようとしなかったが、ここまでは他社もとりうる戦略であり、実際に当時同時進行していたように業界団体で規格を決める道もあったはずである。

PCIバスが受け入れられたは、皮肉なことに主要なユーザーを含んだ業界団体よりもインテルのほうが技術の進化に関して長期的な視野ーつまりこの場合は、CPUが世代交代してもバスの規格は変更不要なアーキテクチャにすること-を持ち得たことであった。また、インテルがまだ市場が存在しないうちにPCIチップの大量生産を開始し、チップセットやマザーボードの生産にも乗り出して、業界に自社のコミットメントを示し、自ら率先して市場をつくり始めたことも大きかっただろう。さらに、規格を搭載する際に必要なソフトウェアライブラリを作って公開するなど規格を広めるための業界サポートも始まった。

このとき得られた、業界に規格を広めるためのノウハウはその後精錬されて発展し、AGPやUSBなどの規格でもインテルがリーダーシップを発揮することに貢献した。対外的な制度としては、最初は少数の重要なプレイヤーで利害関係グループをつくって規格を考案し、その後公開フォーラムで幅広く意見を聞き、さらにワークショップで個々の企業が接続試験を実際におこなう機会を提供する、ソフトウェアやデバイスを開発するツールを広く配布するなど、内部的には、アーキテクチャを提案する研究所と各事業部を切り離す、仕様知財と実装知財を分けて前者のみを公開するポリシーなど。これらの明確なビジョンに基づいた組織的努力が業界の信頼を得ることを可能にしたのだろう。業界に存在する囚人のジレンマの乗り越え方として、他の業界、他の状況にも参考になりそうである。

インテルのように業界が発展すればCPUが売れ結局自社が儲かるという立場にいる、直接のプレイヤーというより、いわば漁夫の利を得るプレイヤーのほうが、デザイン・ルールのリーダー役を演じやすいのかもしれない。マイクロソフトやシスコは自らがプレイヤーであるため、業界全体を活性化させるよりも、デファクト・スタンダードの力を背景に企業の境界をだんだん広げて自らに取り込んでいく方向に進んでいる。対象とする領域が広がると複雑性はけた違いに大きくなるので、これには、自社のみでその複雑性に対処することがだんだん難しくなるという弱点がある。

インテルの他には、パームの事例がおもしろかった。あまりうまく整理されてはいないが、最初からPDA業界のプラットフォームになることを意図したOSをつくりながら、市場がある程度成長するまではそれを宣伝しなかった、企業買収によって組織が硬直化したパーム社自身よりも、創業者があらたに設立したハンドスプリング社がデザイン・ルールを先導するようになった、などの事実が興味深い。インテルやマイクロソフトのように経営資源が豊富な企業以外にも、デザイン・ルールを導いていく可能性があるのかもしれない。

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2008.01.22

Kaz, J.E. and Aahkhus, M.「絶え間なき交信の時代」

Kaz, J.E. and Aahkhus, M."Perpetual Contact: Mobile Communication, Private Talk, Public Performance,"Cambridge Univ. Press, 2002.

(邦訳:富田英典監訳「絶え間なき交信の時代」NTT出版)

1999年に開催された国民文化、比較研究に基づいておこなわれたモバイル・コミュニケーションの社会的側面についてのワークショップでの成果が集められたもので、各章はさまざまな国籍の多数の研究者によって書かれている。その性質上、統一したコンセプトに貫かれているわけではないが、その多様さと繰り返し現れる共通性が興味深い。大変充実したワークショップであったに違いない。

各国の携帯電話の使われ方の多様性は、まさに技術の多義性を実証している。例えば、フィンランド人は基本的に無口で口を開くときには何か理由がある人々であるが、携帯が出現したことによってとりたてて理由もないまま話さなければならない義務感を作り出しつつあるのかもしれない、などという記述は日本人にとっては親近感のあるほほえましい情景であるが、口を開いて自己主張してなんぼという文化においては想像を絶するだろう。

イスラエル人は、先進的な技術が好きで、まだサービスが開始されておらず使えない技術でも購入してしまう行動がみられるほどであるため携帯電話にもすぐとびついたとされるのに対し、イタリア人は、技術に対して大変保守的なのであるが、携帯電話は先進的な技術であるからというよりもそれがファッショナブルなガジェットであるから受け入れられたとされる。この8年ぐらいの間にずいぶん状況も変わっているだろうが、こういう記述は読んでいるだけで楽しく、想像力をかきたてられる。

共通して出てくる携帯電話によるコミュニケーションの特性としては、それが新しい関係性を広げるというよりも、親しい人との関係をさらに強化する、しかも、その人たちと常につながっている状態を作り出していることに顕著な特徴があるという指摘である。それは物理的な場所に結びついた対面コミュニケーションをベースにしたものよりも、手がかりの乏しい人工的な環境におかれたものなので、新しい形の手がかがりの与え方など相互にコミュニケーションを成立させる条件、信頼関係の築き方、感情や感性的なものの表現方法などにさまざまな工夫がなされる。これらは、日本で観察される現象とも一貫性がある。やはりMyersonの議論がちょっとピントがずれているように感じるのは文化差のせいではないかもしれない。

また、10代の使い方は上の世代とちょっと違う、という指摘が繰り返しなされるのもおもしろい。彼らがケータイを使って感情を共有し、自分たちにだけ通用する世界を構築する姿は世界的な現象なのだということがよくわかる。古くは交換日記からポケベルの暗号までこういう10代の姿は昔からあることはあるが、ケータイほどその目的に強力に使えるツールが出現したことはなく、アイデンティティの形成に影響があってもおかしくない。すでに第1世代は20代、さらに30代にさしかかりつつあるが、その影響は大人になっても残っているだろうか。

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2008.01.17

Jenkins, R.V.「フィルムとカメラの世界史」

Jenkins, R.V. "Images and Enterprise: Technology and the American Photographic Industry 1839-1925," John Hopkins Univ. Press, 1975.

(邦訳:中岡哲郎・高松亨・中岡俊介訳「フィルムとカメラの世界史」平凡社.)

もう10年近くも本棚にあって単なる技術史だと思って後回しにしてきたが、読んでみたら、第一級の経営史であった。

フィルム、カメラの業界の歴史は、技術の不連続的な変化に対する業界構造の変化、競合企業間の戦略インタラクション、知財政策、企業の境界の設定、創業経営者が果たしてきた役割の制度化、企業研究所の役割などなど、今日的な課題につながる生き生きとした事例が詰まっており、例えばゼミで手分けしていろいろな観点からこの本の記述を分析をしてみるといった使い方をしてみるとおもしろいかもしれない。

前半は、新しい技術が出てきたとき、その目先の技術的不完全性と、何よりも業界で共有されてきた従来の価値観との不整合のために既存企業がうまく技術変化に対応することができず、技術変化のたびにプレイヤーが変わっていくという破壊的技術のストーリーを地で行っている。やがて、ロールフィルムの発明という大量生産、大衆への大量販売に適した技術革新がおこり、チャンドラーのいう近代的な企業、イーストマン・コダック社がリーダーの地位につく。それから以降はまさに経営者の時代である。

19世紀末から20世紀初頭といえば特許の有効性に関する社会的な認識がまだまだ不安定であったのに違いないのだが、コダック社はこの時代に特許を非常に戦略的に活用したのが印象的である。主要技術を特許で押さえただけでなく、製造プロセスを含め複数の関連特許を鎖のようにつなげて参入障壁を築き、必要とあらば他社の技術を押さえるために水平統合もすすめた。さらに、流通と原材料製造の垂直統合をすすめ、無敵の地位を確立したのである。

おもしろいのは、コダック社が技術を基礎にして業界を統制するやり方を映画産業に適用しようとして失敗したという話である。今日的な感覚ではちょっとびっくりするのだが、エジソン社などの映写機メーカーが映写機の販売だけでは十分な利益を得られないと見て、コダック社と相談して、特許料をフィルム1フィートあたり定額で徴収する映画特許社というシステムをつくったのである。さらに、これを嫌う映画制製作業者や興行主を抑えるため、配給業者を次々前方垂直統合し、このシステムに入らなければ映画の製作ができないという状況にもちこんだ。勝算は、コダック社のフィルムの品質の圧倒的な優位性にあった。

しかし、痛快なのはこの動きがかえって業界のイノベーティブな力を引き出し、新しいビジネスモデルが次々生まれ、スターシステムなど今日のハリウッドの原型ができあがったことである。今日の有力映画会社のルーツはほとんど、この時期映画特許社に反乱を起こした企業家達である。映画特許社はこれら独立系企業に対して次第に譲歩を迫られ、最後は違法の判決を受け、解散することになる。映画業界では、フィルムとカメラと映写機ではなく、映画を見て観客が喜ぶことが最終的な付加価値を生むという単純な事実がゲームを制したのである。この一件で、コダック社のフィルム市場での強さは揺らがなかったものの、なかなか示唆に富む事例である。

とはいえ、コダック社は決して保守的な企業でなく、技術面でも経営面でも非常に革新的であったことは本書を読めばよくわかる。その革新性は創業経営者の能力に依るところが大きかったが、大企業化する過程でうまくその能力を組織に移管していった過程も興味深かった。

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2008.01.16

池田謙一「コミュニケーション」

池田謙一「コミュニケーション」東京大学出版会, 2000年.

社会心理学ベースのコミュニケーション論のテキストとしてマス・メディアや世論形成といったオーソドックスなトピックを中心に取り上げているが、単なる教科書に終わらず読んでいていなかなか刺激的であるのは、著者と研究グループが着実な実証研究成果を重ねてきており、しかも、その着眼点がおもしろいからである。

本書の中にも繰り返し現れる、社会全般の動きに関するサマリー(システム認知)、世の中の人一般に対する認識(一般的他者に対するメンタルモデル)といった、人間がもつある程度抽象的な水準のリアリティの感覚というのは、世論とか社会関係資本のように、個人間の相互作用と制度的なものの中間に存在するような概念を分析するときの重要な意味を持ってくる。例えば、社会関係資本では、個人や個々の集団に対する信頼ではなく、また、金融における信用制度のようなものでもなく、ある人が世の中の大部分の人に対して持つ信頼感である一般信頼性が問題になるのである。

そのようなリアリティの認識が形成される要因としては、マス・メディアの影響など情報環境のバイアスによって生じるという仮説も考えられるが、本書を読む限り、日常接している人々(特に自分と共通点のある人々)とのネットワークの中で生じるコミュニケーションによって形成されていくとという説明したほうが現実とよく合っているようである。このような構造では、他人の意見の影響がかなり強くても全体が同質的になるまでにはなかなか達しない。つまり、意見の多様性が残される可能性が結構あるということである。

とはいってもマス・メディアの影響がないわけではなく、ただ、それは人々の考え方そのものというよりも、何に注目すべきかについてを規定すると著者は見ている。(地下鉄乗客の7割が雑誌の中吊り広告を話題にする!)ニュースに評価情報が含まれることを視聴者はあまり好まず、評価に関わるコミュニケーションがおこなわれるのは、むしろ対人コミュニケーションにおいてである。

.マスメディア注意喚起機能に関しては、現状のあり方では情報量の爆発と技術進化に対してうまく適応できていないのではないかと私は常々思っている。テレビのニュースを見て、悲しい社会事件や前後関係がはっきり示されない政治過程についての報道を毎回紙芝居のように見せられても、私にはうまくリアリティを構成できない。新聞でも似たりよったりである。例えば、ある法案が通ったというニュースであるならば、そもそもその法案は誰の発案でどのような経緯で提出され、それに対してどのような立場を持つ人々がいたのかという点が丁寧に報道されなければ自分なりに判断できない。

そんなとき、思わずテレビ画面やクリックしたくなる私がいる。まあ、興味があれば別途ネットで検索すればよいのだが、すごく関心のあるニュースを除いて、そこまでいちいち手をかける人はやはり少数派だろう。地上波デジタル化をやるのならば、ニュース画面をクリックすればすぐ今までの報道や関連情報が一覧で出るような仕掛けぐらい考えてもよいのではないか。

さて、本書ではインターネットにおけるコミュニケーションに関する記述は少ないが、著者らはこちらの分野にも豊かな研究蓄積がある。下の本も大変おすすめである。

池田謙一編著「インターネット・コミュニティと日常世界」誠信書房, 2005年.

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2008.01.12

J.S. Coleman「社会理論の基礎」

J.S. Coleman, "Foundations of Social Theory," Haravard Univ. Press 1990.

(邦訳:久慈利武監訳「社会理論の基礎 上」青木書店)

こういう本を一気に読めるのもサバティカルならではである。

日常起こっているほとんどの現象を物理学で記述しようと思えばできるし、化学で記述しようと思えばできる。同じことはある程度完成度の高い社会科学の理論にも言えて、世の中で起こっていることをほとんどを、例えば交換の概念で記述しようと思えば多分できるだろう。他の説明の仕方があるのは、どちらかが真実でどちらかが間違っているからではなくて、研究をする人とその成果を参考にする人がどういう問題に直面しているかに依存すると私は考える。

つまり、世の中のことをすべて完全無欠に(どのような見地から見ても他の理論を全く必要としないほど)記述できるような理論がどこかに存在するという前提は私にはない。そういう意味で、社会学で行われているらしい理論論争というのは、もう一つ私の理解を超えるものがある。

もちろん、優れた理論というものはある。論理的一貫性、世の中の諸問題に対する処方箋に(間接的でもよいが)結びつくこと、あまり特定分野に限られ過ぎていないこと、現実との適合性を多くの人に納得できるように示せること、多くの人が参加して改良する可能性があること、など。そういう意味で、Colemanの理論体系は優れた部類に入ると思う。

批判の対象となりやすいのは、19章に明確に示されている通り、個人が目的を持っていて、その目的に従って意図された合理的な行動をとり、自らの効用を最大化しようとするという前提であろう。とは言っても、情報の不完全性は有りとされているし、個人が良かれと思った結果がその個人にとって良くない結果を及ぼす可能性や、システマティックな認知バイアスは検討されている。

これは、Winogradのいう合理主義的伝統とほぼ対応していて、言うまでもなく経済学者にはお馴染みのものであり、経営学者や企業経営に関わる人々にとっても、直面する問題の種類にもよるが、おおむね使い勝手の良い考え方である。

なぜ使い勝手がよいのかは、著者も第1章のメタ理論で言及しているが、人間が自分の運命を意図的に形成できないという理論では、世の中を何らかの形で変えていく力になりえない、というのが最も大きいだろう。企業の中では、確かに意図せざる行動もたくさんあるかもしれないが、完全に受け身な人間像を仮定するのもまた不自然である。

なお、ときどき混同されていることがあるが、研究者側の目的意識と研究対象とする人間の目的意識は異なることに留意が必要である。私の立場は、前者は絶対に必要、後者は研究の目的によって仮定を変えても良いが、企業経営においてはまったく合理性を前提にしないというのは不自然、というものである。行動経済学のところで書いたように合理的でない人間や集団の行動に関する知見を視野に入れつつ、研究の成果を元に企業に属する人間が合理的な意思決定をする余地を残すようなモデルを考える、というのが私のスタンスである。

合目的的、合理的な人間像というのは経営の分野に比較的親和性が高いが、この本に提示されている個々の概念がすごく役に立つかというと、少なくとも経営学に関わりの深い部分に関して革新的なアイディアがたくさん詰まっているようには思えなかった。例えば、企業の理論にあたる第16章あたりは経済学、経営学で議論されてきたことがほとんどである。

その原因は、ちょっと還元主義的な態度があるからだと思う。世の中の百科事典になろうとすると、とたんにおもしろさが掌から零れていくというか。

絶対の真理の存在を信じない私ではあるが、自分の研究で、理論を箱(概念)と矢印(因果関係)で書き、各概念にデータを対応させるという、一見還元主義のような表現形式をとることはよくある。しかし、その世界観は広義の実証主義であっても還元主義ではない。このような問題意識を持った時このような見方をすると役に立つのではないかという「道具」としての理論を提示し、説得性を増すためにデータとの対応をできるだけ示しているつもりである。道具といっても、一回きりの使用ではなく、できるだけいろいろな人に、できるだけ長く、できるだけ広い範囲に使えるものが望ましいと思っている。

Colemanは、この本を世の中を記述する元素と関係性の百科事典と思って書いたのだろうか、それとも少し道具性を意識して書いたのだろうか。

文句をつけたようだが、本書から経営分野に良いインプットになる点はいろいろある。中でも、やはり社会関係資本とその基礎になる信頼の概念、それからミクロからマクロへの移行の解明の必要性が明確に提示されている点が参考になる。

個人をベースにしたミクロの行動がマクロ(例えば組織の構造や制度、外的環境)から影響を受けるというフレームワークの研究はよくあるが、ミクロがマクロの構造にどのように影響を及ぼすかについては、あまり精緻な理論になっていない。例えば、先日レビューしたWeickの理論は、ミクロからマクロへの移行について明確に意識しながら、論理的にはまだいま一つ。実証面で困難があるのは確かであるが、ミクロからマクロへという分析の視点を持つだけで、まだまだおもしろい理論が出てきそうな気がする。

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2008.01.10

野沢慎司編「リーディングス ネットワーク論」

野沢慎司編「リーディングス ネットワーク論」勁草書房,2006年.

社会学のネットワーク論、ネットワーク分析の古典的な論文7編の翻訳してくれるという大変便利な本である。私が院生の頃に出してくれれば大変助かったのだが・・・

改めて通読すると、何度も何度も引用される論文というのは、特に一昔のものは、物語性があるなあと思う。単行本はともかく、ジャーナルに載る論文というのは、査読制度の副作用だと思うが、あまり雄弁に語れなくなっている。メッセージ性を高めるほど論理の飛躍や証拠不十分なところがどうしても出てきて、そこをつっこまれるからである。いろいろ不十分なところがあるが、とてもおもしろいから載せようということにはなかなかならない。公平性、客観性という意味では、(特に米国式の)査読制度の利点は小さくないが、アイディアのおもしろさをもう少し重視するように、そろそろ本格的な揺り戻しがあってもいい。

内容についてはこのブログでも関連するレビューを何度もしている(「競争の社会構造」「孤独なボウリング」「哲学する民主主義」「スモールワールド・ネットワーク」「新ネットワーク思考」「遠距離交際と近所づきあい」「コミュニティ」「仮想経験のデザイン」)ので今回は書かないが、ネットワーク分析に興味を持っている方にはお勧めである。

ひとつだけ、素朴な疑問。Bottの夫婦の役割分化の程度は夫婦が属する社会ネットワークの結合度に依存するという話は、現代の日本でも思い当たるふしがあるが、どうして結合度の高いネットワークに属していると、夫婦の役割や日常の行動が分化するのだろう。あまり何から何まで一緒だとうんざりするからだろうか。希薄なネットワークの中にいると「やむえず」夫婦で一緒に行動せざるを得なくなる。そうかもしれないなあ。

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2008.01.04

von Hippel, E. 「民主化するイノベーションの時代」

von Hippel, E. "Democratizing Innovation," MIT Press, 2005.
(邦訳:サイコム・インターナショナル監訳「民主化するイノベーションの時代」ファーストプレス)

von Hippelのユーザー・イノベーションに関する1976年の有名な論文以来、微妙にニュアンスが変わってきているのは、リード・ユーザーの概念だと思う。本書においても、リード・ユーザは市場動向に先行する先進的なユーザー、所謂普及曲線におけるイノベーターという書かれ方もされているが、その一方で、ロングテールにいる特殊なニッチユーザーもリードユーザーであるとも捉えられている。2000年代のコンテクストにおいては、特殊なニッチが意外に大きなインパクトを持つ、ということなのだろう。だから、民主化、なのである。

ニッチだと思われていて、大量生産メーカーが相手にしなかった市場が案外大きいというのは、昔から潜在的にあったのだろうが、イノベーションが広がる情報のチャネルが整備されたことと、消費財も生産財も画一的なものでは満足されなくなってきていること、また特に豊かな国では、一般の個人が自分の求めるものを得るために自ら知識を得、資源を使う余裕が出てきていることなどの要因が働いて、かつてないほど顕在化していると考えられる。

また、もう1つの今日的な要素は、リードユーザー同士、リードユーザーと一般ユーザー、およびメーカーとの間に形成されるコミュニティである。本書にも引用されているように、競合同士であっても互いに情報を公開する技術コミュニティは古くから存在し、技術革新に重要な役割を果たしてきた。日本でも、中岡哲郎氏の指摘通り、幕末の蘭学者のネットワーク形成以来、技術者のコミュニティは近代工業化の知識基盤となってきた。しかし、著者やレッシグも心配する通り、近年その社会的効用が過少評価される傾向があり、今日その社会的な効用を改めて強調しなければならなくなっているのである。

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2008.01.03

Weick, K.E.「組織化の社会心理学」「センスメーキング イン オーガニゼーションズ」

Weick, K.E."The Social Psychology of Organizing 2nd edition," McGraw-Hill, 1979.
Weick, K.E."Sensemaking in Organizations," Sage, 1995.
(邦訳:遠田雄志訳「組織化の社会心理学」文眞堂、
  遠田雄志・西本直人訳「センスメーキングインオーガニゼーションズ」文眞堂)

院生の頃に読んだはずだが、改めて読むと新鮮で、特に「組織化の社会心理学」の方は当時よりよくわかった気がする。ま、そういうものですね。

企業や何かの仕事をするグループは何か目的があってそれに従って組織化がなされたという形に公式には表現されることが多いが、実態はそんなものではないことを実は我々は知っている。先に構造がいかに形成されうるのか(手段)についての収斂があって、そこから共通の目的が生まれるというという世界観は、なかなか爽快な切り口である。

ネット上のコミュニティを活性化させる方法としても、先に共通の手段、後に共通の目的という発想は役に立ちそうだ。ネット上のコミュニティには何らかのテーマやルールが設定されることが多いが、それを目的や構造そのものと考えるのではなくて、いろいろな人がいろいろな目的で活動する際に共通しておこなわれるあるプロセスを収斂させるための仕掛けのようなものだと考えるとよいかもしれない。2ちゃんねるのように、参加者の目的や行動の制御が極端にできない場所でも、偶発的に生産的なやりとりが生まれ特定の成果のようなものに収斂していくことがあり、それは多くの場合意味的にはスレッドの題名とは無関係である。(電車男の物語が生まれたのは独身男が毒づくスレでしたっけ?)

さて有名な、イナクトメント-淘汰-保持、のモデルは、イナクトメントと淘汰をどう区別したらよいのかという点がわかりにくいのが難である。理解が間違っているかもしれないが、環境の中に存在するある要素を取り上げて問題提起をするのがイナクトメントならば、それにさまざまな解釈を与えて収斂させていくのが淘汰なのかもしれない。マネジメントの役割は、特定の解釈を導くのではなく、組織内での解釈活動を活発にするような上手なイナクトメントを与え、組織の環境適応力を上げることにある、と読めばわかりやすい。

「組織化の・・・」では、企業などの大きな組織でも、個人間の相互依存関係がつながった巨大な網のようなイメージで捉えられていたが、「センスメーキング・・・」では、集主観的という概念を用いて、組織のレベルでのセンスメーキングを取り扱っている。意味解釈行動が個人を離れて組織に共有されたコードになったとき集主観的になるが、やはりセンスメーキングの創造性は個人間(間主観的)のレベルにあると著者は見ているようである。組織のレベルでも意味解釈行動がおこなわれているというよりも、あくまで個人間のネットワークが原単位である世界観だと思う。組織の中のセンスメーキングが個人のレベルと異なる点は、保持の形やイナクトメント、淘汰のあり方にその組織独特の条件づけがなされるということなのではないだろうか。

「センスメーキング・・」の5章「センスメーキングの本質」は、意味とは言葉によって生み出されるものであるからまさに言葉が重要、という節から始まる。言葉が大切なことに異論はないが、「あることがわかる(=センスメーキング)」ことを言葉の作用だとするのは西洋的なものの見方のような気がする。近頃、言葉にならない理解について徒然考えているせいか、言葉を利用するということと言葉そのもが意味であるということには大きな隔たりがあるように感じている。

「組織化の・・」ではメタファー、「センスメーキング・・」では物語の果たす役割の重要性が述べられているが、これらは実は言葉が言葉にならない理解を助ける道具として有用であることを示しているのではないだろうか。そのものずばりはうまく言えない場合でも、メタファーや物語、実践の理論にすると言外の何かが伝わることがある。同じように、視覚、聴覚、その他の身体感覚の助けによって(大抵は言葉と組み合わせて)伝える方法もある。本書で、意味は共有できないが経験は共有できると言っているのも、センスメーキングの本質が言葉そのものではないことを示していると思う。

「センスメーキング・・」の4章で述べられているあいまい性と不確実性の違いについても(組織論的に重要な論点である)、言葉の問題にしてしまうと狭くとらえ過ぎているように思える。われわれの認知の前提を明確にできると実用的には見なすことができる状況では不確実性が問題になり、前提が明らかによくわからない場合はあいまい性が問題になる状況である、とみるとよいのではないかと思う。(「不確実性の見積もりの難しさ」」「コンピュータと認知を理解する」「マトリックスに並べる項目はそんなに自明ではない」)

センスメーキングの5章にある、Shilsの研究に依った伝統に関する記述・・・・行為は直接は伝えられない。伝えられるのは行為のパターンやイメージであり、それらに細心の注意を払うことによって自明視されている行為に対して自覚的になる。それは、自分特有の型を残すように自分の行為をラベルづけしていることに他ならない。型を守るためには、型を破らなくてはならない。そして後で再構成するのである・・・なるほど、そうだ。Shilsを読まなくては。

センスメーキングが自己成就的、回顧的であるというのも、「センスメーキング・・」でより明確に主張されている。社会科学者は、基本的に過去に起こったことしか分析対象にできないので、結果をみてから説明をこじつけているような後ろめたさがいつもどこかであるものだが、考えてみると社会科学者の役割は、真理の探究というよりもセンスメーキングである。世の中に保持していただく価値のある、よいセンスメーキングを行うのが我々の役割かもしれない。

「組織化の・・・」2章9章は研究方法論である。理論的なおもしろさとは何か、など博士課程の方に参考になると思う。9章のヴォネガットからの引用には大笑い。そうそうその通り。

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2007.12.25

Baldwin, C.Y. and K.B.Clark「デザイン・ルール」その4

その1その2その3から続く。

ああ、やはりこのテーマだといくらでも書いてしまう・・・最後に短いメモをいくつか。(ますます、この分野になじみがない方には何のことやらわからないかもしれません。すみません。)

「隠された」「可視」という言葉の意味

「隠された」(カプセル化とも言う)、「可視」は、重要なキーワードであるが、少し誤解されやすい言葉遣いかもしれない。「隠された」というと見たくても見えないという感じを受けるが、概念的には見なくてもよいという意味に近い。「可視」は見えるというよりも、見なくてはならない、に近い。

オープンソース・ソフトウェアやオープン・イノベーションの研究をやっていると、この違いが気になってくる。オープンソースは、文字通り中身が全部外から見えるわけだが、共通規則やインターフェースを除けば他のモジュールをつくるときにいちいち参照しなくてもよいモジュール構造であり得る。

ただ、中身が全部見えるということが、その2に書いたインターフェースの仕切り直しを引き起こすことは十分考えられる。オープンソース・ソフトウェアだけでなく、近ごろ私は、技術がモジュールとしてではなく、その内部まで開示されることいよって、今まで繋がりのなかった主体が結びつき、相互に緊密に調整しながら技術を進化させていくような現象がおこらないかということを考えている。

製品構造とタスク構造

本書が主張するとおり、製品(設計)構造とタスク構造は基本的同形性を持っている。ただし、これはある程度マクロの視点で言えることであって、具体的にタスク構造を設計する人にとっては両者は「同じ」ではないことに留意が必要だ。

情報技術のインパクトを研究していると、情報技術が導入されることによって、他の条件が一定でも、今までよりも相対的に相互調整がしやすくなったり、反対に、タスクが分離されることをよく観察する。今の情報技術は調整の技術としてこの両方に作用する潜在的な力を持っており、どう使うかは使う人の裁量に任せられている。ITの導入に限らず、タスク構造をデザインするときは、ある製品設計構造に対して自動的にタスク構造が決まるとは思わないほうがよい。

製品構造のモジュール性は高くてもあえてインテグラルな調整を残すとよい場合は、例えば、モジュール化による学習の障害が懸念されるときや、およびモジュールの仕切り直しを歓迎すべきときである。マトリックスはあくまで静的な分析なので、将来知識のベースをどのように進化させていくべきかを考慮するのである。

インテグラルな製品構造を維持したままタスクを分離するというのも、情報技術やその他の支援技術によってある程度は可能な場合がある。例えば、極端な薄型化が進んでいるる製品分野では、3次元CADやシミュレーション技術がなければ、タスクの相互依存性が高すぎてそもそも製品化不可能であったという例がたくさんある。

構造と機能

モジュールの定義は研究者によって微妙に違うが、サブシステムと機能が一対一の対応関係を持っていることを条件にしている定義もある。この本ではそれは採用していないようで、私も賛成である。

何が機能かというのは実は難しく、後付けであるモジュールの機能が独立しているように定義することはいくらでもできるので、どうしても恣意的になってしまうのだ。また、「抽出」やインターフェースの仕切り直しの可能性を考えると、定義に含めないほうが良いように思う。

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2007.12.24

Baldwin, C.Y. and K.B.Clark「デザイン・ルール」その3

その1その2から続く。

ソフトウェアは実はモジュール化しにくい?

前回、物理的な特性に左右されやすく、インプットとアウトプットを情報に代えにくい製品は、モジュール化しにくいと書いたが、それが正しいとしたら、一般にソフトウェアはハードウェアよりモジュール化しやすいはずである。それにも関わらず、私はハードウェアよりもソフトウェアの方がモジュール化しにくいのではないかと思っている。それは、おそらく複雑性の桁が違うからである。

ハードウェアとソフトウェアのようなまったく違うものの複雑性を同じ尺度で測るのは難しい。本書ではコストで複雑性を測っているが(表11-1)、これはかなりソフトウェアの複雑性が過少評価されているだろう。ソフトウェアのコスト構成においてはほとんどが相互調整のタスクの費用であるのに対し、ハードウェアには材料費や単純な作業人件費が含まれている。

それらよりもはるかに大きいのは、探索されなかった選択肢の機会コストの大きさがここには含まれていないことである。ソフトウェアの潜在的な選択肢の多さ、あるいは、前提の自明性のなさは、ハードウェアの比ではないと思っている。(その1「マトリックスに並べる項目はそんなに自明ではない」参照。)

ハードウェアは、さまざまな物理特性が設計者にさまざまな制約を課すため、通常設計者が意識していないところで自然と選択肢が絞られる。また、伝統的なモノには概念モデルがあるため、それがさらに大きな前提となる(「ソフトウェアの達人」)。

ソフトウェアは、以前ソフトウェアのデザイン独特の問題として書いたことがあるように、概念モデルが確立されていないことが多い上、ある目的に達するためには無数の方法が考えられる。

ソフトウェアのデザインは、設計というよりも表現に近いものだ。ソフトウェアでは、ある目的を達成するための正しい設計を探すと考えるのはむなしくさえある。ハードウェアでは決して許されない水準で設計不良(バグ)が出るのも、一つにはあまりに選択肢が多すぎて検証しきれないためである。

選択肢が膨大であるためモジュール化が難しいが、だからこそ、モジュール化しなければどうにもならないというのが、ソフトウェア分野のおかれている状態である。ソフトウェア工学分野においてモジュールの概念が発展してきたのはそのためである。

ソフトウェアの世界でモジュールをうまく選択してシステムをつくりあげていくには、ハードウェアほどには精密なシステムを求めないことである。部分的には不便なところがあっても全体としてプラスの価値があるものができれば良しとする。モジュール提供企業が競争して次々良いものが出てくるのを待ち、入れ替えてシステムを進化させていく。

日本では、ユーザー企業もモジュールを組み合わせてシステムを構築するのに慣れていないし、それと裏表であるが、情報システム産業が委託開発中心のビジネスモデルからいまだに抜け出ることができていない。日本の製造業は、世界を席捲するようなデザイン・ルールは提案できていないかもしれないが、ハイエンドのモジュールの提供ではかなり健闘している。しかし、ソフトウェア分野では、国際的なモジュール競争にほとんど参加することさえできていない。製造業よりも、情報システム産業の方が荒治療が必要なのかもしれない。

その4につづく。次回こそ終わり。

(それにしても、クリスマスイブにこのようなオタクな記事を書いている私って・・・)

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2007.12.23

Baldwin, C.Y. and K.B.Clark「デザイン・ルール」その2

その1から続く。

モジュール型とインテグラル型(相互連関型)ではどちらが柔軟性があるか

日本の経営学で割と好んで語られるストーリーに、モジュール型は技術革新を阻んだり、環境変化に柔軟ではないというのがある。この本にはまったく反対のことを書いてあるわけだが、どこがすれ違っているのだろうか。

まず、単純な誤解として、モジュールの中身が標準化されることとインターフェースが標準化されることが混同されている場合がある。日本の経営学で研究対象としてよく選ばれるのは機械エレクトロニクス製品だが、特に機械系のインターフェースは内部構造を規定してしまう程度が高いことも混乱の原因になっていると思う。物理的な特性に左右されやすく、インプットとアウトプットを情報に代えにくい製品はモジュール化するにしても限界があるだろう。

次にインターフェースが固定されるとシステム全体として仕切り直しが必要な技術革新が阻まれる可能性があるという論点である。これには、一理ある。

この本では、システム全体のインターフェースの仕切り直しが視野に入っていないわけではない。複数のモジュールの中に共通して存在する部分を「抽出」して新しいデザイン・ルールをつくるというのがそれである。抽出は重要なアーキテクチャル・イノベーションだが、これはモノゴトを要素に分解し還元していく方向性を持っている。分離されていたものを再び統合し、改めて線を引きなおす、という発想が見られないのだ。私もそこには違和感を感じてしまう。

「再統合」のオペレータは要らないのだろうか?おそらく、インターフェースを何度も引きなおすのとインテグラル型はどう違うのかという話になるのだろう。むしろモジュール型では、業界の中にまったく異なるデザイン・ルールが複数出現することもあり得るので、デザイン・ルール同士が競争し淘汰されていくことを通じて柔軟性を確保すると考えるほうがよいのだろう。どちらが柔軟性があるかは一概に言えない。

また、タスクがモジュールに分解されると人々の学習が特定領域に限定され、デザイン・ルールを改善したり、新しく創り出す力を損なう恐れがある。これには組織体制や労働市場のあり方にも関係しているが十分考えられることである。ただ、日本企業が柔軟な職域やサプライヤーとの協業によって高品質なものを作り出しているということは言えても、世の中を席捲するようなデザイン・ルールを次々と作り出しているかどうかは疑問である。デザイン・ルールを作る人はシステム全体の相互作用に関する深い理解を必要とするが、その力を品質向上以上のレベルで発揮できるかどうかは、別の要因が絡んでいるのかもしれない。

三番目に、システムの範囲を広げることの威力というものが日本ではどうしても過少評価されがちである。この本では「追加」および「転用」のオペレータということになるが、さまざまな新しいモジュールが現れ、それらをつなぎ合わせることによってシステム全体として当初はまったく予期できなかったものが現れるというのは、IT関連産業が実現して見せたとおりである。システムの領域を広げることを通じて全体としての革新と柔軟性を得るのだ。

日本企業は、個々の技術ではもはやキャッチアップではなくても、全体として今までにないアーキテクチャ、デザイン・ルールを構想することはいまだに苦手である。(ここで言っているのは、あくまでアーキテクチャの構想であってモジュールの中身など細部に至るまでの計画ではない。)企業だけでなく、社会全体として、全体構想は既存のものを持って来たがる傾向があるのではないだろうか。つまり、システムの領域は所与として考え、その中でパフォーマンスを高めようとするので、比較するとインテグラル型の方が優位であるように思えるのだ。

最後に、上の2つの要因にも関係しているが、日米では資本市場、起業環境、労働市場が異なることが大きい。本書でも繰り返し述べられているように、モジュール型のメリットを得るには、モジュールを提供する企業が多数現れ、ファイナンスされ、技術者が供給され、競争を通じて評価され淘汰されていく必要があるのである。

環境が異なるから日本はインテグラル型で、とか、諸制度をとにかく米国式に、とかでうまくいくほど話は単純ではないことは確かであるが、それにしても、日本の産業社会にデザイン・ルールを自ら作り出し、業界全体(もちろん世界レベルで)に伝播させていくエネルギーがもっとあっても良い。経営学からもその助けになるような仕事がたくさん出てくる良いと思う。

その3につづく。

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2007.12.22

Baldwin, C.Y. and K.B.Clark「デザイン・ルール」その1

Baldwin, C.Y. and K.B.Clark, "Design Rules: The Power of Modularity," MIT Press, 2000.

(安藤晴彦訳「デザイン・ルール」東洋経済新聞社)

私は現在いる世界に入るきっかけとなった出来事をはっきり覚えている。1994年修士2年のゼミで、私がモリス・ファーガソンの「アーキテクチャーを制するものが情報技術産業を制する」という論文をレビューしたとき、師匠の目がきらっと光ったのだ。

私はもともと学者になるつもりはまったくなかったが、企業に勤めていたとき当時急激に進んでいたダウンサイジングやネットワーク化が会社の組織に強い影響を与えていることを肌に感じていて、これについて考えてみたいと思ってビジネススクールに入りなおしていた。アーキテクチャ、モジュールといった概念と出会うのは当然のなりゆきであり、それが縁でこの道に入ったのである。

さて、一度この本のレビューを書いておこうと前から思っていてソウルに持ってきていたものの、どっぷり浸かっている世界なので案外書きにくく(というより書いたら止まらないのかも)、ちょっと変則的な形で何回か書いてみようと思う。未読の方には内容がわかりにくいかもしれないがご容赦を。大変論理的に精緻に書かれた本なので、興味を持った方は是非読んでいただきたい。損はしないはずである。

もし私が経営コンサルタントでDSM、TSM分析の導入を企業から相談されたら

DSM、TSMとは、製品設計構造とタスク構造の要素間の相互依存性をマトリックスにした表で、簡単にいえば要素間の相互依存性がいくつかのブロックに集中してそれ以外の要素に飛び散らない状態がモジュール化された構造である。製品やタスクをモジュール構造にすることのパワーについて述べたこの本を読んだ日本企業の方からDSM、TSMの作り方を相談されたとしよう。たぶん私はこのように答えると思う。

-今まで自社や協力企業に特注して作っていた部分、あるいは新たに付け加える部分を市販品にすることを検討する余地はあると思いますか。

実際そうするかどうかは別として、検討する意思が「ある」ならば分析する価値は必ずある。「ない」場合は次の質問。

-顧客に提供している機能はそれほど急激には変わらないでしょうか。かつ、年々設計の複雑性が増大していて手に負えなくなっているでしょうか。

機能の急激な変化というのはあいまいな表現だが、例えばコピー機をつくっていて年々高速化したりメニューに新しい機能が付け加わるぐらいでは、ここでは急激な変化とは呼んでいない。今までのコピー機の概念とは異なるような製品を出したり、顧客層がまるで異なるような場合は急激な変化である。

機能が急激には変わらなくて、設計の複雑性が増大して困っているなら、DSM、TSM分析を試してみる価値はあるかもしれない。設計の複雑性の増大は当たり前だが、なぜ機能が安定している場合なのだろうか。

それは決して製品システムが提供する価値の性質が急激に変化する場合にモジュール性を検討することは意味がないからではない。むしろ、ある条件下では、モジュール化が不可欠になる。そうではなくて、

マトリックスに並べる項目はそんなに自明ではない
ということが問題になるからである。

本年のこの読書日記に繰り返し出てきたテーマとして、この世に存在している選択肢の見積もりの難しさというのがある。実際に作業に入ってみると、製品設計構造にしろ、タスク構造にしろ、何を項目に立ててよいのか迷わない人はいないと思う。試しに項目をつくる作業を何人かで別々に作ってみると、人によってかなりばらばらになるのではないか。

この本は、この世を多数の要素とその相互関係として捉える、Winogradの言う合理主義的伝統に典型的にのっとっている。ものごとが複雑であるほど、要素(選択肢)の数と相互関係絡み合いが多くなる。私が「マインズ・アイ」のレビューで書いたこともそのような世界観に基づいている。

しかし、あらゆる選択肢にはそもそも何らかの前提が必要であり、関わる人間の前提をすべて明示することは不可能であるという見方(「コンピュータと認知を理解する」)では、要素と相互関係の数の問題ではないことになる。

本質的には後者かもしれないが、実用的にはあらかじめ大きな制約があるときは制御可能な範囲で選択肢を選ぶことができるかもしれない。設計や生産方法の選択肢がどれだけ多様かということよりも、そもそもある製品が提供する機能に変化がどの程度あるのかが一番効く。また、一般にソフトウェアはハードウェアよりも制御しにくい(これについては後で書くつもりである)。

そこそこ機能が安定していて複雑性が高まっているのでやってみようということになれば、マトリックスを作成する作業に入る前に、そもそも項目に何を並べるのが適当かを検討するのに一番時間をかけるべきである。ここで誰かがとりあえず作ったものを自明なことのように受け入れたり、どこかの本に書いてあるものを持ってきてはいけない。われわれは何をどのように作り出しているのか、その相互依存性を捉えるのにどのような項目を立てることが一番実用的かをなるべく多様なバックグラウンドを持ったチームで検討すると良いと思う。2回目以降は楽になると思うが、最初は大変手間がかかるので、それに見合う複雑性の爆発に困っているときだけ、ということになる。

一方、そもそも何を作り出すべきかを検討しなければならないケースでは、DSM、TSMのような要素還元的な手法は禁物である。無意識の前提を覆さなければならないときに強力な或る前提のもとで作業をすることになるからである。(繰り返すがモジュール性を検討することがいけないのではなく、マトリックスをつくることがよくないのである。)

閉じた生態系ではモジュール化から得られるメリットには限界がある

ただし、最初の条件にあるように、同時に市販部品を採用することに検討する場合は別である。相互依存性の分析は市販部品の採用の意思決定に単に有用であるというだけでなく、市販製品には必ずインターフェースがあり、あるインターフェースの存在を前提にするとただそれだけで選択肢を制御可能な範囲に狭めることができる可能性が高いからである。

この本の重要な主張の一つは、モジュール化をある企業の閉じた生態系(ある企業の独自の仕事のやり方を受け入れてくれる協力企業も含む)の中で行うことは、技術的にはできるが、その価値を評価し淘汰してくれる外の世界がないので十分なメリットが引き出せないという点であるが、このように考えると、技術的にも難しいということがわかる。閉じた生態系では、モジュール化を検討する作業自体が見合ったものになるのは上の2番目の質問にあるような限定的な条件下であり、また、そのメリットも開かれた生態系における場合に比べて格段に小さくなるのである。

その2につづく。

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2007.12.14

Hofstede, G.「多文化社会」

Hofstede, G."Cultures and Organizations," McGraw-Hill, 1991.

(邦訳:岩井紀子・岩井八郎訳「多文化社会」有斐閣)

国や社会による違いというものは厳然としてあるのだが、世界中の社会を共通の次元でスパッと切って分析することはなかなか勇気のいることで、多くの批判を覚悟しなくてはならない。一つにはそれが単純に難しい作業だからであり、もう一つは研究者自身も研究を受け取る側も必ずある社会の中に埋め込まれているので、どうしてもバイアスが避けられないからだ。

組織文化の比較研究といえばHofstedeの引用というぐらいHofstedeの一連の研究が受け入れられているのは、使われている切り口が「ああ、そうそう、そうだよねー」とかなり多くの人を納得させるからだと思う。

1つ目の次元「権力格差」は特定の権力者に決定をゆだねる傾向である。権力格差が望ましいと考える国では実際に権力格差が大きい傾向がある。(これは考えてみると自明ではない。)ラテン系を除く西欧と北米は権力格差が低く、日本は中の低ぐらいでアジアの中では低い方、ラテン系欧州、アジア、南米、アフリカでは権力格差が高い。日本の位置は何となく納得できる。

一般に米国企業は日本企業に比べてトップダウンの意思決定構造をもつと言われているが、権力格差はそれとはまた別の話のようだ。上司とフレンドリーに話し合えることがトップダウンの弊害の中和剤的な役割を果たしているのかもしれない。

2つ目は個人の利害と集団の利害のバランス感覚である「個人主義-集団主義」の軸である。個人主義は北米・西欧諸国で強く、日本は中位、アジア・南米・アフリカは集団主義が強い。日本はかつてはもっと集団主義が強かったと思うのだが、アジアの中では早めに工業化し核家族化が進んだからなのだろう。

3つ目は、これは私にはやや違和感があるのだが、「男性らしさ-女性らしさ」の次元である。測定の方法は、仕事の目標を給与、承認、昇進、やりがいにおいているほど男性らしく、上司や一緒に働く人との関係、居住地、雇用の保障におくほど女性らしい。なぜ、こんな名前がついているのかというと、前者は男性、後者は女性でスコアが高いからであるが、男性らしい社会では男女の性別役割がはっきりしていて、自己主張の高い態度が望ましいと考えられている、女性らしい社会では性別役割ははっきりしておらず、謙虚な態度が望ましいと考えられていると解釈されている(ここは実証されていないようだ)。そして、男性らしい社会の断トツは日本である。

違和感を感じるのは、突出した言動は嫌われて、控えめな態度が好まれ、できるという確信のない事柄を約束しないように努めるというHofstedeの言う女性らしい社会の特徴はとても男性らしい社会であるはずの日本によくあてはまるからだと思う。(本書では女性らしい社会としてHofstedeの出身国であるオランダが例として挙げられている。オランダ人と日本人の相性はよいかも。)

確かに、(給与はともかく)承認や昇進への欲求が高いのは日本の企業人の特徴だろうと思う。また、断トツかどうかはわからないが、性別役割分担に対する規範的な圧力は強い国だと思う。本来別の次