渡部信一編著「日本の『わざ』をデジタルで伝える」大修館書店, 2007年.
技能の伝承のデジタル支援について、ここ半年ほどいろいろ考えていた仮説や疑問のかなりの部分がこの本の中に提示されていた。私の考えていることは、それほどピント外れではなかったようである。本のレビューだけでなく研究のためのメモも兼ねているので少し長くなるが書いておく。
本書は渡部信一氏と民俗芸能のデジタル化を実践している方や研究者の対談形式で進んでいくが、議論の一つの焦点は、伝統芸能のような「わざ」の伝承において、デジタル技術でできることとできないことの境目である。できるできないと分けるよりも、旧来のコミュニケーションの仕方やさまざまな他の仕掛けとの組み合わせで新しいあり方をどう生み出していくかと考えたほうがよいとは思うが、とりあえずデジタル技術だけでは実現できないこと、見落とされがちなことをよく知ることも必要だろう。
その第1は、私も近頃まさにそのことを考えていたのだが、外形的な現象(例えば踊りならば動き)を再現することと、伝えるべきことを表現することは異なり、デジタル技術は前者は得意であるが、後者は伝えるべきことが論理で明示的にあらわらすことができない領域にある場合難しいという点である。2番目の対談に登場する生田久美子氏は前者を「形」後者を「型」と表現している。デジタル技術は形は表現できるが型そのものを表現できない。実は、デジタル技術だけでなく、あらゆるアナログの道具でも、言語でも、型そのものは表現できないと思う。道具や言語にできるのは型の理解を助けることのみで、型の伝承は常に不完全であるという宿命を持っているのかもしれない。(でも、不完全であることは、おそらくいけないことではない。)
本書に、重いものを持って動かすときの動きと軽いものを持って動かす動きは動作する人にとってはかなり違うはずだがモーションキャプチャでは同じA地点からB地点からの動きしかとらえられないのではないかという疑問に対し、モーションキャプチャによる伝統芸能の記録している方が、手だけでなく全身の動きを記録すれば例えば重いものを動かしているときは腰が残っているといった違いが出るだろうと答えるエピソードがある。
デジタル化の精度が高くし、また、デジタル化する範囲も広くすれば、現象の記録の不完全性による問題はかなりなくせるだろう。しかし、ここで問題が一つ残る。伝承したかったのは、AからBへの微妙な動かし方の差だったのだろうか。例えば、AからBへの手の動かし方が腰の動きとの連動も含めて正確にコピーされていても、型から総合的に見るとまったく適切でない動きだと評価されることもあるかもしれない。反対に、型を押さえていれば、手はAからCへ動かしてもよいのかもしれない。では、何が型なのかをどうやって知ればよいのだろうか。
私は、第3者(例えば研究者)が型の本質を分析して、これが型であるとモデルを提示するというアプローチでは成功しないだろうと考えている。
ではどうしたらよいかという点については、民俗芸能の踊りをモーションキャプチャをしてCG化したDVDが2種類に分けられるという話にそのヒントが隠されているような気がしている。一つは比較的平易にアレンジした踊りを誰にでも踊れるようにわかりやすく教えるためのDVD、もう一つは民俗芸能を保存することを目的とした、特に教え方というものがないDVDである。前者は家や運動会で楽しく踊るためのものであるから、形のコピーで目的を達せられるが、後者は型の伝承まで踏み込んでいるため、DVD製作者が教え方まで用意できないのである。つまり、デジタル技術の提供者の役割は、材料の提供であって、解釈は習う人と教える人(おそらくわざの伝承の域に達するには独習では難しいだろう)に任せたほうがよい。
このことは、アーカイブとしてのデジタル化と伝承のためのデジタル化が異なるという論点にも深く関係している。本書ではアーカイブでは定型化する必要があるという意見も出てくるが、私はそれが本質ではなくて、おそらくアーカイブで重要なのは見る人にとっての再現性である。一方、伝承で重要なのは伝授者の型の理解を助けることであり、そのために必要であるならば再現性が犠牲にされてもよい。前者はできるだけ多様で精度の高い情報をとることで現在の技術水準でもかなりのものが達成できるが、後者は実践者の試行錯誤が必要で、技術はその試行錯誤を支援する存在でなくてはうまくいかない。
デジタル技術だけではなかなか実現できないことの第2は、伝承がおこなわれる舞台装置(場所の雰囲気、道具立て、儀式、師匠と弟子の人間関係、地域全体の教育の仕組み、神様との関係・・・)である。わざの伝承はこれまでも舞台装置とセットでおこなわれてきたし、今後も伝承に何らかの舞台装置は欠かせないだろうという点である。文化的な文脈の理解が欠かせないようなわざを完全なデジタル環境で伝承することが難しいであろう有力な理由がここにある。ただし、技術の変化、また時代環境によって当然舞台装置のあり方は常に変わっていくものであるから、その一部がデジタル技術で用意されてもおかしくはない。
第3は、学習対象と学習内容の全体性である。西洋芸術の場合、わざの体系は技術の要素に分解され、易しいものから難しいものへと順番に体系だてて教えられるが、日本のわざの教授ではまず作法のようなものを教えられてから、いきなり作品から入り、ひたすら師匠の模倣をさせられる。形の模倣を繰り返すうち自然に型が身につき、「身体があまって」きて、次第に自分なりのあやがつけられるようになるという。韓国舞踊でも名人はかなり崩して即興的に踊っていて、それが評価されるが、これも基本の上にある趣きの一種であろう。だとすればなおさら形だけを保存しても意味がないということになる。
師匠の弟子に対する指導の仕方もダメだということははっきりと言われても、その根拠が明確には示されない。また、伝統的に弟子が師匠の日常生活をともにする(世界への潜入する)ことで、個々の技術だけでなく、生活態度や実践の場に関わる人々やモノとの関係性全体を学び取る。学習対象も、学習の仕方も全体性が要求されることは、西洋流に比べて構造化しにくく、システム化しにくいことは明らかである。
一方、デジタル技術が何かの機能を代替するだけでなく、デジタル技術を使うことによって何かが生み出される側面もある。
まず、モデル化の過程で情報が欠落することは、デジタル化の利点でもある。例えば、踊りの初心者にとっては師匠の動きは複雑すぎてそのまま再現することはできないし、自分の技量にあったレベルに簡略化するにしてもどこをまねしたらよいのかの判断がつかない。もちろん師匠はそこのところを繰り返し伝えようとするわけであるが、言葉や身振りだけよりも、CGなどでポイントとなるところがわかりやすく表現されればずいぶん助けになる。それが形の模倣に過ぎなくても、型の理解の第一歩に違いない。
また、本書に出てくる、舞台裏で役者が演じる動きをモーションキャプチャしてCG化し、舞台上の役者と共演させる試みなど、デジタル技術が表現の新しい可能性を生み出すことも当然ある。
さらに、本書の中にも少し出てきて私が大変重要だと思っていることは、デジタル技術によって習う人が型を理解することを助けるだけでなく、伝えようとしている人自身が型の本質に新たな発見をする、という点である。モデル自身が型の本質を理解してつくられていなくても、形を再現し、かつそれを見やすくする工夫がなされるときに、非言語的な領域で理解しているものがより明確なかたちで理解できるようになる(依然非言語的かもしれないが)、というのは必ずあると思う。師匠もまた学習者である。
ところで、本書では、4章に出てくる漢方医学の伝承の研究をしている川口陽徳氏との対談が滅法おもしろい。漢方医学も病気にあえて病名をつけず、全体としてとらえ、その伝承方法も名人と生活を共にして学ぶという伝統的な方法であったが、幕末から明治期にかけて漢方医道の伝統的な伝承基盤がゆらいだ時代に、(浅田飴の)名人浅田宗伯は、医道を書物によって学ぶことのできる医学、診断技法の医術、心構えや日常の関係性すべてを包括した医道に分節化することで、門人に医道の全体性を明確に意識させた。医道の伝承とは、医者と患者、書物やその他の要素との関係性を模倣し学習する場を提供することであったという見方である。
川口氏の研究内容もおもしろいが、特にすばらしいのは渡部氏との対談におけるその適切なつっこみである。(出版当時まだ博士課程在学中というのにはびっくりである。)一例をあげると、デジタル化出来るからと言ってデジタル化することが即効率的であるとみるのは間違いではないかという指摘はまさにその通り。わざをとりまく現象にはあまりに潜在的な選択肢が多すぎてそれを第三者がモデル化するのは思った以上に非効率的なのである。やはり、意味を見つけるのは当事者に任せたほうがよい。それにはそれなりの道具の用意の仕方のノウハウというものがあるはずなのだ。
最後に、編著者の渡部氏のデジタル化という言葉の使い方が、記号化すること、論理として操作できることと捉えられていて、実はこれはデジタル技術を使うこととイコールではなく、私の意見としては概念的な混乱を呼びやすい定義の仕方ではないかと思う。確かにデジタル化すると、コンピュータにとっては記号化されるのだが、人間にとっては記号化されるとは限らないという点が大事なのだと思っている。