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January 2008

2008.01.31

恩人

ソウル産業大学の元時太教授と同校で非常勤講師をされているニューテックのユ社長には3次元CAD関係の調査で大変お世話になった。特に、元先生には、アンケート調査の回収状況が悪いので困っていたところ、じきじきに電話をあちらこちらにかけていただき、42票も集めていただいたのだった。ありがとうございます。

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2008.01.30

インタビュー

本日も寒空の下、ソウルから1時間、水原駅から車で20分の自動車サプライヤーにインタビューに行った。

現場の管理がきちんとなされているのが伝わってくるよい工場だったが、従業員一人一人のバイオリズムが張り出されており、バイオリズムが底のときは休暇をとるように促しているというのはびっくりした。8割ぐらいは当たるという。まあ、生年月日に基づく管理というのはともかく、監督者が従業員に今日の調子はどうかと尋ねて調子が悪いときは簡単な作業に回すなどの配慮をしているというのは悪くないと思う。

リサーチアシスタントの院生さんの就職が急に決まって、ぎりぎりになって一生懸命働いてくれているおかげで、ここのところ、コミュニティサイト研究の方のインタビューもたくさん入って結構忙しい。私もここは、いざというときに気合いで乗り切る韓国式で行かなければ。

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2008.01.26

宮川公男・大守隆「ソーシャル・キャピタル」

宮川公男・大守隆「ソーシャル・キャピタル」東洋経済、2004年.

社会関係資本関連の本もいろいろレビューしてきた(「孤独なボウリング」「哲学する民主主義」「コミュニティ」「遠距離交際と近所づきあい)のでごく簡単に。

1章の宮川公男氏のソーシャル・キャピタル論が政策等に与えた影響についての概観は秀逸である。理論(少なくとも社会科学の理論)が社会情勢から中立的ではあり得ないことがよくわかる。

各論では、社会関係資本を構成する重要概念である信頼についての4章のアスレーナーの議論はおもしろかった。信頼概念を普遍化信頼、特定化信頼に分け、現代においては前者こそ重要という議論は、パットナムの橋渡し型と結束型のコミュニティ、社会心理学分野での山岸俊男氏の信頼と安心は異なるという議論などに対応し、新しい話ではない。しかし、もう1つの次元として、人はどのように行動すべきかという道徳的な信頼と、人がどう行動するかについての予測である戦略的な信頼を分け、特定のグループではなくより広い範囲の人を信頼する普遍化信頼においては前者が重要で、道徳的な信頼はパットナムが重視しているような市民的なボランティア組織への参加によっては醸成されない(逆の因果関係はあるが)という主張はなかなか刺激的だ。

私自身は、アスレーナーが道徳的信頼は幼少期の環境に左右され、大人になってからの市民団体での活動などでの経験はあまり役に立たないと見ているのには賛成できない(人間は大人になってからも結構学習するものだ)が、市民団体への参加率などは一面を捉えているのにすぎないというのはその通りであろう。また、一般信頼性を高めるには、子供のときに異質なバックグランドを持つ人々と触れ合う環境が大切というのは間違いない。昔よりも外国の方が日本にたくさん来ているのだから、英語の早期教育なんかよりも子供たちが外国の方にごく自然とつきあう環境をつくる方が重要だと思う。

一般信頼の醸成に社会的な平等が大切というのは日本の状況に即して考えるとよく検討してみるに値する課題である。外れ値はあるにしても、一般には貧しい国は社会的な不平等が大きく、社会が豊かになるにつれ平等化が進み、さらに豊かになるとまた不平等化が進む。北欧諸国などは豊かになっても社会的平等を制度的に維持する道をとり、米国は経済の大きさに比してもかなり不平等な社会である。アスレーナーは、社会関係資本の見地から日本は経済格差をもっとなくす政策をとるべきであると見ている。

気をつけなくてはいけないと思うのは、経済格差をなくす方向で政策を考えるにしても、それが一般信頼を醸成するかたちにしなくてはならないということである。他人は私と異なる、皆それぞれに異なるという基本認識は、一般信頼や橋渡し型コミュニティには欠かせない。格差を縮めなくてはいけないと言うときに、それが経済格差や社会的な特権の客観的な是正を超えて、人と私は違ってはいけない、ちょっとした違いに異常に敏感になる、異質な存在を締め出そうとするという心理性向を強化してはいけないと思う。少し乱暴な二分法で言うと、理性のレベルでは資源の社会的分配の平等化をすすめても、感情のレベルではもっと異質性を許容する社会をつくるということである。

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2008.01.25

Gawer, A. and M.A. Cusumano「プラットフォームリーダーシップ」

Gawer, A. and M.A. Cusumano "Platform Leadership," Harvard Business School Press, 2002.

(邦訳:小林敏男監訳「プラットフォームリーダーシップ」有斐閣)

非常に重要な領域を扱っているのに関わらず、プラットフォームの定義が非常に広い(下位システムが相互にイノベーションを創発しあう進化するシステム)ため、概念的な切り口が物足りないのが惜しい。

事例としては、インテルの話が抜群に面白い。

1980年代にIBMがPCシステムのインターフェースをオープン化して以来しばらく混沌とした状態が続いていた業界において、インテルが業界のリーダシップをとるようになったのは、一般にはCPUという一番重要なキーデバイスを押さえていたからと考えがちである。しかし、よく考えてみると、オープンアーキテクチャにおいては単に重要な部品を製造しているからといってリーダーシップを発揮できるとは限らない。本書を読むと、インテルは、デザインルールを作り出し、業界に影響力を高めるためにはっきりとしたビジョンに基づいて社内社外でかなり意識的な行動をとっていたことがよくわかる。

最初の転機となったPCIバスの開発は、直接動機としてはCPUの性能をいくら高めても部品相互の接続のインターフェースの性能が悪くてシステム全体のパフォーマンスが上がらないというボトルネックを解消するためであっただろう。インテルはこの仕様をオープンにして業界の囲い込みの手段としては使わず、また、直接課金することによって開発費用を回収しようとしなかったが、ここまでは他社もとりうる戦略であり、実際に当時同時進行していたように業界団体で規格を決める道もあったはずである。

PCIバスが受け入れられたは、皮肉なことに主要なユーザーを含んだ業界団体よりもインテルのほうが技術の進化に関して長期的な視野ーつまりこの場合は、CPUが世代交代してもバスの規格は変更不要なアーキテクチャにすること-を持ち得たことであった。また、インテルがまだ市場が存在しないうちにPCIチップの大量生産を開始し、チップセットやマザーボードの生産にも乗り出して、業界に自社のコミットメントを示し、自ら率先して市場をつくり始めたことも大きかっただろう。さらに、規格を搭載する際に必要なソフトウェアライブラリを作って公開するなど規格を広めるための業界サポートも始まった。

このとき得られた、業界に規格を広めるためのノウハウはその後精錬されて発展し、AGPやUSBなどの規格でもインテルがリーダーシップを発揮することに貢献した。対外的な制度としては、最初は少数の重要なプレイヤーで利害関係グループをつくって規格を考案し、その後公開フォーラムで幅広く意見を聞き、さらにワークショップで個々の企業が接続試験を実際におこなう機会を提供する、ソフトウェアやデバイスを開発するツールを広く配布するなど、内部的には、アーキテクチャを提案する研究所と各事業部を切り離す、仕様知財と実装知財を分けて前者のみを公開するポリシーなど。これらの明確なビジョンに基づいた組織的努力が業界の信頼を得ることを可能にしたのだろう。業界に存在する囚人のジレンマの乗り越え方として、他の業界、他の状況にも参考になりそうである。

インテルのように業界が発展すればCPUが売れ結局自社が儲かるという立場にいる、直接のプレイヤーというより、いわば漁夫の利を得るプレイヤーのほうが、デザイン・ルールのリーダー役を演じやすいのかもしれない。マイクロソフトやシスコは自らがプレイヤーであるため、業界全体を活性化させるよりも、デファクト・スタンダードの力を背景に企業の境界をだんだん広げて自らに取り込んでいく方向に進んでいる。対象とする領域が広がると複雑性はけた違いに大きくなるので、これには、自社のみでその複雑性に対処することがだんだん難しくなるという弱点がある。

インテルの他には、パームの事例がおもしろかった。あまりうまく整理されてはいないが、最初からPDA業界のプラットフォームになることを意図したOSをつくりながら、市場がある程度成長するまではそれを宣伝しなかった、企業買収によって組織が硬直化したパーム社自身よりも、創業者があらたに設立したハンドスプリング社がデザイン・ルールを先導するようになった、などの事実が興味深い。インテルやマイクロソフトのように経営資源が豊富な企業以外にも、デザイン・ルールを導いていく可能性があるのかもしれない。

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2008.01.24

感情の処理様式

今日は良い天気であったが、昼の12時でもマイナス7度。室内はオンドルのおかけでいつも20度前後に保たれているので、出かける用がない日は外がいくら寒くても関係ないはずなのだが、隙あらば冷気が忍び寄ってくる感じでお腹をこわしがちである。

さて、私には韓国文化を語る資格などないのだが、DREAMS COME TRUEの古いアルバムを聴きながら伝統舞踊の表現のことを考えていて(なぜに?)、感情表現の日韓の違いについてちょっと考えたことがあったので、いい加減な内容だが少し。

ドリカムの「朝がまた来る」という曲は私は名曲だと思うのだが、これは、彼氏との関係が破局して、私はどうしようもない気持ちのままここにいる、という歌である。曲調は暗くなくパワフルなのだが、明日の朝になれば歩き出せるよという安易なメッセージではない。主人公は、明日朝がまた来てもあなたがそこにいるわけでもなく、当分私はただここに立ちすくんでいるしかない、でも、それでもいつかはこの想いは空に昇っていく、そのときはまた歩き始めることができる、と考えている。ああ、そういうものよねえと思うのだが、よく考えてみると、これはすごく日本的な感情の処理様式なのではないかと思い至った次第である。

あまりたくさん読んでいるわけではないのだが、韓国の文化について書いてあるものには、「恨」という概念が出てくる。恨は単なる恨みではなく、世の中のいろいろなどうしようもない辛い感情をぐっと内面にため込んでいる状態であるようだ。そして、そのたまったエネルギーを、「興」としてポジティブなエネルギーに変えてポンっと噴出し、さらには、もっと広大なスケールの世界に高め昇華させていく「神明」の境地に達するのだという(不正確だと思います。すみません)。このような感覚は、伝統舞踊を見ていても、何となくだが感じることができる。

朝がまた来るの主人公も同じくどうしようもない気持ちを抱いているが、それがポジティブに変換されるまで内面に閉じ込めておくというようなエネルギーを持っていない。それよりも、いつか流れる水に洗われて少しずつ消えていくだろうというような感覚に身を任せ、とりあえず今日を生きていくのである。

韓国の人はそれを内面に溜めてプラスに変換できる日まで待つというのだから、実にエネルギッシュである。やがて個人の内面を超えてもっと高次元の世界に近づいていこうとするところは共通しているが、人間も自然の一部として一体化させてしまう日本人と、天と地の間に人がいると考える朝鮮半島の人々という世界観の違いがあるのかもしれない。

常日頃、韓国の人々はいざとなったときの集中力とパワーがすごいなあと思っていたが、こういう文化様式と関連があるのかもしれない。日常の喜怒哀楽の感じ方は韓国人と日本人との間にあまり差はないと思うが、それを処理していく様式のようなものが違うというのはありそうなことである。

ちなみに、私の踊りの師匠の表現は、感情豊かで常に前向きなご本人の性格を反映して、ネガティブな暗さがほとんど感じられない。感情のエネルギーが最初から陽転しているというか。そういえば、ドリカムの吉田美和もそうだ。そこが私は好きなのである。自分と比べるのも何だが、吉田美和と私は同い年だし、師匠は2歳上なのでだいたい同世代である。世代的に通じるものがあるのかもしれない。

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2008.01.23

インタビュー

今日はソウルから1時間ほどの華城市にある会社にインタビューに行った。思いきり寒さを満喫。

電機系のサプライヤーということで紹介を受けたのだが、3次元CADを使っているのは別の関連会社ということで、急遽プラント系のインタビューに変更。まあ、全然かまわないけれど。プラント系は、建築CADと機械CADの中間ぐらいの感覚だった。

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2008.01.22

Kaz, J.E. and Aahkhus, M.「絶え間なき交信の時代」

Kaz, J.E. and Aahkhus, M."Perpetual Contact: Mobile Communication, Private Talk, Public Performance,"Cambridge Univ. Press, 2002.

(邦訳:富田英典監訳「絶え間なき交信の時代」NTT出版)

1999年に開催された国民文化、比較研究に基づいておこなわれたモバイル・コミュニケーションの社会的側面についてのワークショップでの成果が集められたもので、各章はさまざまな国籍の多数の研究者によって書かれている。その性質上、統一したコンセプトに貫かれているわけではないが、その多様さと繰り返し現れる共通性が興味深い。大変充実したワークショップであったに違いない。

各国の携帯電話の使われ方の多様性は、まさに技術の多義性を実証している。例えば、フィンランド人は基本的に無口で口を開くときには何か理由がある人々であるが、携帯が出現したことによってとりたてて理由もないまま話さなければならない義務感を作り出しつつあるのかもしれない、などという記述は日本人にとっては親近感のあるほほえましい情景であるが、口を開いて自己主張してなんぼという文化においては想像を絶するだろう。

イスラエル人は、先進的な技術が好きで、まだサービスが開始されておらず使えない技術でも購入してしまう行動がみられるほどであるため携帯電話にもすぐとびついたとされるのに対し、イタリア人は、技術に対して大変保守的なのであるが、携帯電話は先進的な技術であるからというよりもそれがファッショナブルなガジェットであるから受け入れられたとされる。この8年ぐらいの間にずいぶん状況も変わっているだろうが、こういう記述は読んでいるだけで楽しく、想像力をかきたてられる。

共通して出てくる携帯電話によるコミュニケーションの特性としては、それが新しい関係性を広げるというよりも、親しい人との関係をさらに強化する、しかも、その人たちと常につながっている状態を作り出していることに顕著な特徴があるという指摘である。それは物理的な場所に結びついた対面コミュニケーションをベースにしたものよりも、手がかりの乏しい人工的な環境におかれたものなので、新しい形の手がかがりの与え方など相互にコミュニケーションを成立させる条件、信頼関係の築き方、感情や感性的なものの表現方法などにさまざまな工夫がなされる。これらは、日本で観察される現象とも一貫性がある。やはりMyersonの議論がちょっとピントがずれているように感じるのは文化差のせいではないかもしれない。

また、10代の使い方は上の世代とちょっと違う、という指摘が繰り返しなされるのもおもしろい。彼らがケータイを使って感情を共有し、自分たちにだけ通用する世界を構築する姿は世界的な現象なのだということがよくわかる。古くは交換日記からポケベルの暗号までこういう10代の姿は昔からあることはあるが、ケータイほどその目的に強力に使えるツールが出現したことはなく、アイデンティティの形成に影響があってもおかしくない。すでに第1世代は20代、さらに30代にさしかかりつつあるが、その影響は大人になっても残っているだろうか。

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2008.01.21

調査協力率

このブログにはあまり研究のメインの活動について詳しく書いていないが、もちろん読書と踊りばかりをやっているわけではない。あまり書いてこなかった理由には、ひとつにはメインのテーマについてはあまりいい加減なことを書けないということと、もう一つには調査協力者への配慮がある。さらに結構大きいかもしれないことは、滞在途中ではぐちになるようなことをあまり書きたくなかったということがある。

そろそろ滞在も終盤なので書いてもいい気がしてきたが、実は、韓国でのフィールドワークには結構苦労しているのだ。インタビューでもアンケートでも、企業の調査協力率が日本企業よりずっと低いような気がする。

事前に日本にいる韓国出身の研究者の方などから、韓国は縁故社会だから人の紹介をもらうように、一度食事するとずいぶん関係性が変わる、というようなことは言われていた。しかし、人の紹介があろうと(それが結構強力なものであっても)、一緒に食事をして関係性をつくっても、プレゼンテーションなどしてまずこちらから情報をたくさん提供しても、韓国人研究者の方からコンタクトをとってもらっても、もちろん快く協力してくださった方もいらしたが、全般には協力を得るのがかなり難しかった。

何かの機会に歓談するようなことはわりとできるのだが、ちゃんとしたインタビューやアンケートとなるととたんに尻ごみされてしまう。調査に協力したところでなんのメリットになるのかという反応(まあ、確かにもっともなのだが)なのだと思う。

一つには、社会科学的な調査の意義というものに対する認識が形成されていないということもあるだろうし、もう一つは、たぶん企業社会にあまりにも余裕がないということがあると思う。日本企業だって忙しさでは負けていないが、物理的な時間ではなく、産業社会の成熟度の問題のようなものである。前に少し書いたが、韓国社会は、個人のレベルでは実に人情味あふれる濃密なネットワークがあるのだが、企業組織はそれとは別である傾向にある。企業現場では、近年ますます、効率や直接の成果を求めるプレッシャーが強まっていて、そのコンテクストでは協力しにくい環境にあるのだと思う。

とはいえ、全体にはまあまあの成果を上げつつある。調査に協力して下さった企業の方々、救いの手を差しのべていただいた方々に深く感謝いたします。

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2008.01.19

技能の学習・伝承に関するメモ2

前回書いて以来、新しく気づいたことを書きとめておく。

これが技能の学習・伝承のデジタル支援にどうつながっていくかまだ明瞭に見えているわけではないが、きっと関係があると思う。

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今年になって個人授業をアメリカの大学の先生(H先生としておく)と二人で受けることになった。これは私にとっては誠にありがたいことで、H先生は韓国系だが日本の近代文学が専門で、日本語が大変お上手なのだ。師匠の話を通訳してもらえる!

さて、先日、師匠にイプチュムという踊りを見ていただいたとき、少し距離を置いたところで見ているような感じで踊るように、という指導があった。うーむ、初心者になんと言う難しいことを。

素人のまったくいい加減な感想にすぎないのだが、私が今まで習ったものや師匠や先輩方が踊っているのを見て、この非常に限られた範囲では、大きく分けて2種類の踊りがあるような気がする。一つ目は、人間の内面をにじみ出させるような踊りで、このイプチュムやサルプリチュムがそれにあたる。二つ目は、外に向かって開かれた踊りで、才人庁基本舞や今習っている最中のチンジュキョバン(晋州教坊)クッコリチュムがそれにあたる。

師匠の指導は、イプチュムのように人間の内面を出すような踊りであっても、きっとストレートに押し出すのではだめだということなのだ。

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何でそうなのか、今日、H先生と踊りの公演を見に行って少しわかったことがある。

今日の公演は盛りだくさんで8人の踊り手がそれぞれ多様な踊りを披露したのだが、一番良かったのはトッペギチュムという重要無形文化財でありながら普段は農業をされているというイ・ユンソクさんの踊りだということでH先生と私の意見が一致した。失礼ながら登場されたとき、まるで裏方の人が間違えて出てきてしまったような風情だったのだが、踊りが始まると自然で素朴な動きでありながら心を打つ踊りであった。

今日の出演者は皆相当のテクニックをもった方ばかりだと思うのだが、イ・ユンソクさんのように心を打つ踊りと、あまり心動かされない踊りに分かれていたように思う。帰りがけにH先生と話したことは、踊りはテクニックではないのだねっ、ということだった。

もちろんテクニックも大事なのだが、その上で人の心を打つには別の何かが必要なのだ。

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それで気づいたのは、当り前のことだが、踊りというものはそれを見ている人がいて成立するものだということだ。初心者である私は、踊っていて楽しいから踊っているのにすぎず、恥ずかしいのでできれば人に見られたくない!という気持ちは否めない。でも、踊りは本来そういうものではないのだ。

師匠に言われた、少し距離を置いたところで見ているような感じで踊る、というのは、自分のために踊っている限り決して到達できない。自分の踊りを見て感じてくれる人が存在して、その人の心を動かすためには、内面から何かを出すのだが、それを少しだけ距離をおいて制御して、観客に響かすことが必要なのだ。これは、表面的なテクニックではなくて、踊りに対する態度のようなものかもしれない。

今日の公演ですばらしい演技をした人は、表現の内容に関わらず、踊り手と観客が共鳴するような場を創り出す態度を持っていた、ということではないか。しかし、言うのは簡単だが、実現するのはすごく難しいことだと思う。ただ練習すればよいというものではないのだから。

(そういえば、のだめカンタービレも、テクニックと内的表現力は十分ある人が、観客と共鳴する場をつくるための態度を学習していくというような話ですね。)

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先に書いた二つ目の種類の踊り、外に向かって開いた踊りも観客の心に響くような態度が重要なのは同じだが、少しあり方が違うかもしれない。他の人が文章だけ読んでも全然イメージがわかないと思うが、自分のために考えたことを少し書いておく。

才人庁基本舞(タリョンチュム+クッコリチュム)は、無色透明で、表現するものが天や地や人、つまりこの世の成り立ち。すごく抽象的だ。私は勝手に、踊り手が小さな宇宙を作り出しているというイメージを持っている。

チンジュキョバン(晋州教坊)クッコリチュムは、やはりスケールの大きい世界を相手にしているが、空の広がり、風、大地といった基本舞よりは身近なものと会話している感じ。私の勝手なイメージはソッテ

このような開かれた踊りのときは、表現する内容がそもそも「私」から少し離れている。もっと普遍的な層から観客とつながる感じだ。あくまでの素人考えで、ではどうやればそういう域に達するのか皆目わからないけれど。

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2008.01.17

Jenkins, R.V.「フィルムとカメラの世界史」

Jenkins, R.V. "Images and Enterprise: Technology and the American Photographic Industry 1839-1925," John Hopkins Univ. Press, 1975.

(邦訳:中岡哲郎・高松亨・中岡俊介訳「フィルムとカメラの世界史」平凡社.)

もう10年近くも本棚にあって単なる技術史だと思って後回しにしてきたが、読んでみたら、第一級の経営史であった。

フィルム、カメラの業界の歴史は、技術の不連続的な変化に対する業界構造の変化、競合企業間の戦略インタラクション、知財政策、企業の境界の設定、創業経営者が果たしてきた役割の制度化、企業研究所の役割などなど、今日的な課題につながる生き生きとした事例が詰まっており、例えばゼミで手分けしていろいろな観点からこの本の記述を分析をしてみるといった使い方をしてみるとおもしろいかもしれない。

前半は、新しい技術が出てきたとき、その目先の技術的不完全性と、何よりも業界で共有されてきた従来の価値観との不整合のために既存企業がうまく技術変化に対応することができず、技術変化のたびにプレイヤーが変わっていくという破壊的技術のストーリーを地で行っている。やがて、ロールフィルムの発明という大量生産、大衆への大量販売に適した技術革新がおこり、チャンドラーのいう近代的な企業、イーストマン・コダック社がリーダーの地位につく。それから以降はまさに経営者の時代である。

19世紀末から20世紀初頭といえば特許の有効性に関する社会的な認識がまだまだ不安定であったのに違いないのだが、コダック社はこの時代に特許を非常に戦略的に活用したのが印象的である。主要技術を特許で押さえただけでなく、製造プロセスを含め複数の関連特許を鎖のようにつなげて参入障壁を築き、必要とあらば他社の技術を押さえるために水平統合もすすめた。さらに、流通と原材料製造の垂直統合をすすめ、無敵の地位を確立したのである。

おもしろいのは、コダック社が技術を基礎にして業界を統制するやり方を映画産業に適用しようとして失敗したという話である。今日的な感覚ではちょっとびっくりするのだが、エジソン社などの映写機メーカーが映写機の販売だけでは十分な利益を得られないと見て、コダック社と相談して、特許料をフィルム1フィートあたり定額で徴収する映画特許社というシステムをつくったのである。さらに、これを嫌う映画制製作業者や興行主を抑えるため、配給業者を次々前方垂直統合し、このシステムに入らなければ映画の製作ができないという状況にもちこんだ。勝算は、コダック社のフィルムの品質の圧倒的な優位性にあった。

しかし、痛快なのはこの動きがかえって業界のイノベーティブな力を引き出し、新しいビジネスモデルが次々生まれ、スターシステムなど今日のハリウッドの原型ができあがったことである。今日の有力映画会社のルーツはほとんど、この時期映画特許社に反乱を起こした企業家達である。映画特許社はこれら独立系企業に対して次第に譲歩を迫られ、最後は違法の判決を受け、解散することになる。映画業界では、フィルムとカメラと映写機ではなく、映画を見て観客が喜ぶことが最終的な付加価値を生むという単純な事実がゲームを制したのである。この一件で、コダック社のフィルム市場での強さは揺らがなかったものの、なかなか示唆に富む事例である。

とはいえ、コダック社は決して保守的な企業でなく、技術面でも経営面でも非常に革新的であったことは本書を読めばよくわかる。その革新性は創業経営者の能力に依るところが大きかったが、大企業化する過程でうまくその能力を組織に移管していった過程も興味深かった。

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2008.01.16

池田謙一「コミュニケーション」

池田謙一「コミュニケーション」東京大学出版会, 2000年.

社会心理学ベースのコミュニケーション論のテキストとしてマス・メディアや世論形成といったオーソドックスなトピックを中心に取り上げているが、単なる教科書に終わらず読んでいていなかなか刺激的であるのは、著者と研究グループが着実な実証研究成果を重ねてきており、しかも、その着眼点がおもしろいからである。

本書の中にも繰り返し現れる、社会全般の動きに関するサマリー(システム認知)、世の中の人一般に対する認識(一般的他者に対するメンタルモデル)といった、人間がもつある程度抽象的な水準のリアリティの感覚というのは、世論とか社会関係資本のように、個人間の相互作用と制度的なものの中間に存在するような概念を分析するときの重要な意味を持ってくる。例えば、社会関係資本では、個人や個々の集団に対する信頼ではなく、また、金融における信用制度のようなものでもなく、ある人が世の中の大部分の人に対して持つ信頼感である一般信頼性が問題になるのである。

そのようなリアリティの認識が形成される要因としては、マス・メディアの影響など情報環境のバイアスによって生じるという仮説も考えられるが、本書を読む限り、日常接している人々(特に自分と共通点のある人々)とのネットワークの中で生じるコミュニケーションによって形成されていくとという説明したほうが現実とよく合っているようである。このような構造では、他人の意見の影響がかなり強くても全体が同質的になるまでにはなかなか達しない。つまり、意見の多様性が残される可能性が結構あるということである。

とはいってもマス・メディアの影響がないわけではなく、ただ、それは人々の考え方そのものというよりも、何に注目すべきかについてを規定すると著者は見ている。(地下鉄乗客の7割が雑誌の中吊り広告を話題にする!)ニュースに評価情報が含まれることを視聴者はあまり好まず、評価に関わるコミュニケーションがおこなわれるのは、むしろ対人コミュニケーションにおいてである。

.マスメディア注意喚起機能に関しては、現状のあり方では情報量の爆発と技術進化に対してうまく適応できていないのではないかと私は常々思っている。テレビのニュースを見て、悲しい社会事件や前後関係がはっきり示されない政治過程についての報道を毎回紙芝居のように見せられても、私にはうまくリアリティを構成できない。新聞でも似たりよったりである。例えば、ある法案が通ったというニュースであるならば、そもそもその法案は誰の発案でどのような経緯で提出され、それに対してどのような立場を持つ人々がいたのかという点が丁寧に報道されなければ自分なりに判断できない。

そんなとき、思わずテレビ画面やクリックしたくなる私がいる。まあ、興味があれば別途ネットで検索すればよいのだが、すごく関心のあるニュースを除いて、そこまでいちいち手をかける人はやはり少数派だろう。地上波デジタル化をやるのならば、ニュース画面をクリックすればすぐ今までの報道や関連情報が一覧で出るような仕掛けぐらい考えてもよいのではないか。

さて、本書ではインターネットにおけるコミュニケーションに関する記述は少ないが、著者らはこちらの分野にも豊かな研究蓄積がある。下の本も大変おすすめである。

池田謙一編著「インターネット・コミュニティと日常世界」誠信書房, 2005年.

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2008.01.12

J.S. Coleman「社会理論の基礎」

J.S. Coleman, "Foundations of Social Theory," Haravard Univ. Press 1990.

(邦訳:久慈利武監訳「社会理論の基礎 上」青木書店)

こういう本を一気に読めるのもサバティカルならではである。

日常起こっているほとんどの現象を物理学で記述しようと思えばできるし、化学で記述しようと思えばできる。同じことはある程度完成度の高い社会科学の理論にも言えて、世の中で起こっていることをほとんどを、例えば交換の概念で記述しようと思えば多分できるだろう。他の説明の仕方があるのは、どちらかが真実でどちらかが間違っているからではなくて、研究をする人とその成果を参考にする人がどういう問題に直面しているかに依存すると私は考える。

つまり、世の中のことをすべて完全無欠に(どのような見地から見ても他の理論を全く必要としないほど)記述できるような理論がどこかに存在するという前提は私にはない。そういう意味で、社会学で行われているらしい理論論争というのは、もう一つ私の理解を超えるものがある。

もちろん、優れた理論というものはある。論理的一貫性、世の中の諸問題に対する処方箋に(間接的でもよいが)結びつくこと、あまり特定分野に限られ過ぎていないこと、現実との適合性を多くの人に納得できるように示せること、多くの人が参加して改良する可能性があること、など。そういう意味で、Colemanの理論体系は優れた部類に入ると思う。

批判の対象となりやすいのは、19章に明確に示されている通り、個人が目的を持っていて、その目的に従って意図された合理的な行動をとり、自らの効用を最大化しようとするという前提であろう。とは言っても、情報の不完全性は有りとされているし、個人が良かれと思った結果がその個人にとって良くない結果を及ぼす可能性や、システマティックな認知バイアスは検討されている。

これは、Winogradのいう合理主義的伝統とほぼ対応していて、言うまでもなく経済学者にはお馴染みのものであり、経営学者や企業経営に関わる人々にとっても、直面する問題の種類にもよるが、おおむね使い勝手の良い考え方である。

なぜ使い勝手がよいのかは、著者も第1章のメタ理論で言及しているが、人間が自分の運命を意図的に形成できないという理論では、世の中を何らかの形で変えていく力になりえない、というのが最も大きいだろう。企業の中では、確かに意図せざる行動もたくさんあるかもしれないが、完全に受け身な人間像を仮定するのもまた不自然である。

なお、ときどき混同されていることがあるが、研究者側の目的意識と研究対象とする人間の目的意識は異なることに留意が必要である。私の立場は、前者は絶対に必要、後者は研究の目的によって仮定を変えても良いが、企業経営においてはまったく合理性を前提にしないというのは不自然、というものである。行動経済学のところで書いたように合理的でない人間や集団の行動に関する知見を視野に入れつつ、研究の成果を元に企業に属する人間が合理的な意思決定をする余地を残すようなモデルを考える、というのが私のスタンスである。

合目的的、合理的な人間像というのは経営の分野に比較的親和性が高いが、この本に提示されている個々の概念がすごく役に立つかというと、少なくとも経営学に関わりの深い部分に関して革新的なアイディアがたくさん詰まっているようには思えなかった。例えば、企業の理論にあたる第16章あたりは経済学、経営学で議論されてきたことがほとんどである。

その原因は、ちょっと還元主義的な態度があるからだと思う。世の中の百科事典になろうとすると、とたんにおもしろさが掌から零れていくというか。

絶対の真理の存在を信じない私ではあるが、自分の研究で、理論を箱(概念)と矢印(因果関係)で書き、各概念にデータを対応させるという、一見還元主義のような表現形式をとることはよくある。しかし、その世界観は広義の実証主義であっても還元主義ではない。このような問題意識を持った時このような見方をすると役に立つのではないかという「道具」としての理論を提示し、説得性を増すためにデータとの対応をできるだけ示しているつもりである。道具といっても、一回きりの使用ではなく、できるだけいろいろな人に、できるだけ長く、できるだけ広い範囲に使えるものが望ましいと思っている。

Colemanは、この本を世の中を記述する元素と関係性の百科事典と思って書いたのだろうか、それとも少し道具性を意識して書いたのだろうか。

文句をつけたようだが、本書から経営分野に良いインプットになる点はいろいろある。中でも、やはり社会関係資本とその基礎になる信頼の概念、それからミクロからマクロへの移行の解明の必要性が明確に提示されている点が参考になる。

個人をベースにしたミクロの行動がマクロ(例えば組織の構造や制度、外的環境)から影響を受けるというフレームワークの研究はよくあるが、ミクロがマクロの構造にどのように影響を及ぼすかについては、あまり精緻な理論になっていない。例えば、先日レビューしたWeickの理論は、ミクロからマクロへの移行について明確に意識しながら、論理的にはまだいま一つ。実証面で困難があるのは確かであるが、ミクロからマクロへという分析の視点を持つだけで、まだまだおもしろい理論が出てきそうな気がする。

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2008.01.11

これから出かけるというのに

雪やこんこん。

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こういう日はこれを履いていく。マイナス20度でも平気という触れ込み。

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ソウル市民はこんなものは履かない。道行く人の足元をみると、雪が歩道に積もっていても、普通のスニーカーや革靴、ハイヒールのパンプスの人もいる。

雪に慣れているだけでなく、ソウルの人々は寒さにも耐性があると思う。この時期のソウルは最低気温はもちろん氷点下、最高気温も0度から上がらない日がある。でも、着ているものは東京とあまり変わらない気がする。

私は、ソウルっ子ではないので、東京では決して履かないズボン下(スパッツというのか?)着用は標準になってしまった。まあ、若い人と違って無理したら碌なことはないからね。

帰りに私の好きなトク(餅菓子)を買ってきた。大福のようなものだが、こちらのは甘味が少なくてよい。すぐ堅くなってしまうので、日本におみやげに買って帰れないのが残念。

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2008.01.10

野沢慎司編「リーディングス ネットワーク論」

野沢慎司編「リーディングス ネットワーク論」勁草書房,2006年.

社会学のネットワーク論、ネットワーク分析の古典的な論文7編の翻訳してくれるという大変便利な本である。私が院生の頃に出してくれれば大変助かったのだが・・・

改めて通読すると、何度も何度も引用される論文というのは、特に一昔のものは、物語性があるなあと思う。単行本はともかく、ジャーナルに載る論文というのは、査読制度の副作用だと思うが、あまり雄弁に語れなくなっている。メッセージ性を高めるほど論理の飛躍や証拠不十分なところがどうしても出てきて、そこをつっこまれるからである。いろいろ不十分なところがあるが、とてもおもしろいから載せようということにはなかなかならない。公平性、客観性という意味では、(特に米国式の)査読制度の利点は小さくないが、アイディアのおもしろさをもう少し重視するように、そろそろ本格的な揺り戻しがあってもいい。

内容についてはこのブログでも関連するレビューを何度もしている(「競争の社会構造」「孤独なボウリング」「哲学する民主主義」「スモールワールド・ネットワーク」「新ネットワーク思考」「遠距離交際と近所づきあい」「コミュニティ」「仮想経験のデザイン」)ので今回は書かないが、ネットワーク分析に興味を持っている方にはお勧めである。

ひとつだけ、素朴な疑問。Bottの夫婦の役割分化の程度は夫婦が属する社会ネットワークの結合度に依存するという話は、現代の日本でも思い当たるふしがあるが、どうして結合度の高いネットワークに属していると、夫婦の役割や日常の行動が分化するのだろう。あまり何から何まで一緒だとうんざりするからだろうか。希薄なネットワークの中にいると「やむえず」夫婦で一緒に行動せざるを得なくなる。そうかもしれないなあ。

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2008.01.05

あと2か月

あと2か月で日本に帰るのだが、本当にいやである。

韓国での暮らしが肌に合って、かけがえのない縁で出会った人たちと離れるのがいやというのももちろんあるが、この10ヶ月、気ままに感じること、何かを理解すること、何かを身につけることに専念できたということが一番大きい。

教えたり、論文を書いたりする仕事は、学ぶところももちろんあるのだが、どちらかというと自分の中にあるものを出していく作業で、どうしても出過剰になってしまう。30代後半はずっと体調が良くなくてますます入力する余裕がなくなっていたのだが、体調が良くなって日常から解放される環境に来て、インプットに対する飢えが一気に爆発した感じがする。

何かがわかったり、身についたりするという体験は、受動的などんな娯楽よりも大きな喜びを与えてくれると思う。そして、一度その喜びを味わってしまうとやめられなくなるような中毒性がある。ここにきて、完全に中毒症状がぶり返したようだ。

学習中毒者というのは、頭を使う仕事だけでなくあらゆる分野にいて、会うとすぐわかる。オリンピックで金メダルをとるような人はたいてい重度の学習中毒者だし、経営者にも結構いるし、私の踊りの先生もそうだな。もちろん、研究者や学者にはたくさんいる。

若い時に一時期がんばったというのではなくて、年をとっても続くというところが中毒者たる由縁である。周りの人に迷惑をかけがちなので、人間的にどうかというのはまた別の話だが。

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2008.01.04

von Hippel, E. 「民主化するイノベーションの時代」

von Hippel, E. "Democratizing Innovation," MIT Press, 2005.
(邦訳:サイコム・インターナショナル監訳「民主化するイノベーションの時代」ファーストプレス)

von Hippelのユーザー・イノベーションに関する1976年の有名な論文以来、微妙にニュアンスが変わってきているのは、リード・ユーザーの概念だと思う。本書においても、リード・ユーザは市場動向に先行する先進的なユーザー、所謂普及曲線におけるイノベーターという書かれ方もされているが、その一方で、ロングテールにいる特殊なニッチユーザーもリードユーザーであるとも捉えられている。2000年代のコンテクストにおいては、特殊なニッチが意外に大きなインパクトを持つ、ということなのだろう。だから、民主化、なのである。

ニッチだと思われていて、大量生産メーカーが相手にしなかった市場が案外大きいというのは、昔から潜在的にあったのだろうが、イノベーションが広がる情報のチャネルが整備されたことと、消費財も生産財も画一的なものでは満足されなくなってきていること、また特に豊かな国では、一般の個人が自分の求めるものを得るために自ら知識を得、資源を使う余裕が出てきていることなどの要因が働いて、かつてないほど顕在化していると考えられる。

また、もう1つの今日的な要素は、リードユーザー同士、リードユーザーと一般ユーザー、およびメーカーとの間に形成されるコミュニティである。本書にも引用されているように、競合同士であっても互いに情報を公開する技術コミュニティは古くから存在し、技術革新に重要な役割を果たしてきた。日本でも、中岡哲郎氏の指摘通り、幕末の蘭学者のネットワーク形成以来、技術者のコミュニティは近代工業化の知識基盤となってきた。しかし、著者やレッシグも心配する通り、近年その社会的効用が過少評価される傾向があり、今日その社会的な効用を改めて強調しなければならなくなっているのである。

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2008.01.03

Weick, K.E.「組織化の社会心理学」「センスメーキング イン オーガニゼーションズ」

Weick, K.E."The Social Psychology of Organizing 2nd edition," McGraw-Hill, 1979.
Weick, K.E."Sensemaking in Organizations," Sage, 1995.
(邦訳:遠田雄志訳「組織化の社会心理学」文眞堂、
  遠田雄志・西本直人訳「センスメーキングインオーガニゼーションズ」文眞堂)

院生の頃に読んだはずだが、改めて読むと新鮮で、特に「組織化の社会心理学」の方は当時よりよくわかった気がする。ま、そういうものですね。

企業や何かの仕事をするグループは何か目的があってそれに従って組織化がなされたという形に公式には表現されることが多いが、実態はそんなものではないことを実は我々は知っている。先に構造がいかに形成されうるのか(手段)についての収斂があって、そこから共通の目的が生まれるというという世界観は、なかなか爽快な切り口である。

ネット上のコミュニティを活性化させる方法としても、先に共通の手段、後に共通の目的という発想は役に立ちそうだ。ネット上のコミュニティには何らかのテーマやルールが設定されることが多いが、それを目的や構造そのものと考えるのではなくて、いろいろな人がいろいろな目的で活動する際に共通しておこなわれるあるプロセスを収斂させるための仕掛けのようなものだと考えるとよいかもしれない。2ちゃんねるのように、参加者の目的や行動の制御が極端にできない場所でも、偶発的に生産的なやりとりが生まれ特定の成果のようなものに収斂していくことがあり、それは多くの場合意味的にはスレッドの題名とは無関係である。(電車男の物語が生まれたのは独身男が毒づくスレでしたっけ?)

さて有名な、イナクトメント-淘汰-保持、のモデルは、イナクトメントと淘汰をどう区別したらよいのかという点がわかりにくいのが難である。理解が間違っているかもしれないが、環境の中に存在するある要素を取り上げて問題提起をするのがイナクトメントならば、それにさまざまな解釈を与えて収斂させていくのが淘汰なのかもしれない。マネジメントの役割は、特定の解釈を導くのではなく、組織内での解釈活動を活発にするような上手なイナクトメントを与え、組織の環境適応力を上げることにある、と読めばわかりやすい。

「組織化の・・・」では、企業などの大きな組織でも、個人間の相互依存関係がつながった巨大な網のようなイメージで捉えられていたが、「センスメーキング・・・」では、集主観的という概念を用いて、組織のレベルでのセンスメーキングを取り扱っている。意味解釈行動が個人を離れて組織に共有されたコードになったとき集主観的になるが、やはりセンスメーキングの創造性は個人間(間主観的)のレベルにあると著者は見ているようである。組織のレベルでも意味解釈行動がおこなわれているというよりも、あくまで個人間のネットワークが原単位である世界観だと思う。組織の中のセンスメーキングが個人のレベルと異なる点は、保持の形やイナクトメント、淘汰のあり方にその組織独特の条件づけがなされるということなのではないだろうか。

「センスメーキング・・」の5章「センスメーキングの本質」は、意味とは言葉によって生み出されるものであるからまさに言葉が重要、という節から始まる。言葉が大切なことに異論はないが、「あることがわかる(=センスメーキング)」ことを言葉の作用だとするのは西洋的なものの見方のような気がする。近頃、言葉にならない理解について徒然考えているせいか、言葉を利用するということと言葉そのもが意味であるということには大きな隔たりがあるように感じている。

「組織化の・・」ではメタファー、「センスメーキング・・」では物語の果たす役割の重要性が述べられているが、これらは実は言葉が言葉にならない理解を助ける道具として有用であることを示しているのではないだろうか。そのものずばりはうまく言えない場合でも、メタファーや物語、実践の理論にすると言外の何かが伝わることがある。同じように、視覚、聴覚、その他の身体感覚の助けによって(大抵は言葉と組み合わせて)伝える方法もある。本書で、意味は共有できないが経験は共有できると言っているのも、センスメーキングの本質が言葉そのものではないことを示していると思う。

「センスメーキング・・」の4章で述べられているあいまい性と不確実性の違いについても(組織論的に重要な論点である)、言葉の問題にしてしまうと狭くとらえ過ぎているように思える。われわれの認知の前提を明確にできると実用的には見なすことができる状況では不確実性が問題になり、前提が明らかによくわからない場合はあいまい性が問題になる状況である、とみるとよいのではないかと思う。(「不確実性の見積もりの難しさ」」「コンピュータと認知を理解する」「マトリックスに並べる項目はそんなに自明ではない」)

センスメーキングの5章にある、Shilsの研究に依った伝統に関する記述・・・・行為は直接は伝えられない。伝えられるのは行為のパターンやイメージであり、それらに細心の注意を払うことによって自明視されている行為に対して自覚的になる。それは、自分特有の型を残すように自分の行為をラベルづけしていることに他ならない。型を守るためには、型を破らなくてはならない。そして後で再構成するのである・・・なるほど、そうだ。Shilsを読まなくては。

センスメーキングが自己成就的、回顧的であるというのも、「センスメーキング・・」でより明確に主張されている。社会科学者は、基本的に過去に起こったことしか分析対象にできないので、結果をみてから説明をこじつけているような後ろめたさがいつもどこかであるものだが、考えてみると社会科学者の役割は、真理の探究というよりもセンスメーキングである。世の中に保持していただく価値のある、よいセンスメーキングを行うのが我々の役割かもしれない。

「組織化の・・・」2章9章は研究方法論である。理論的なおもしろさとは何か、など博士課程の方に参考になると思う。9章のヴォネガットからの引用には大笑い。そうそうその通り。

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