技能の学習・伝承に関するメモ
前々から、組織に存在する知識や技能を伝承したり、学習を促すために情報技術をどのように使ったらよいのかに興味を持っていたのだが、韓国に来て図らずもそのテーマを考えるのに大変良い経験を得ることができた。今までに何回か書いているが、韓国の伝統舞踊を習うという機会である。
情報技術を使うというと、明示的、構造的な知識を保存するという発想になりがちだが、私が目をつけているのは、「言葉にしにくいものを理解する」ことを情報技術が支援できるのではないかという点である。
言葉にしにくいものの理解というのはあらゆる局面で存在するが、踊りを教える・習う場では、理解させよう・しようとするもののほとんどが言葉にしにくいものである。それに加えて、私のケースは、先生との間で言葉があまり通じないという、なかなかおもしろい状況にある。
おもしろいと他人事のように書いているが、実際のところ言葉の問題で、簡単な伝達事項すらわからなくて行き違いがあることは時々あり、また、概念的な話を一方的にされるとまったくわからない。しかし、踊りの学習については、私もおそらく師匠の方もほとんどストレスを感じていないし、韓国人の他の生徒に比べてコミュニケーションが不足しているということはまったくないというのが実感である。これがなかなか不思議なところである。
さて、まだ全く論じたりする段階ではないのだが、今現在経験していること、感じたことを後々のためにメモしておこうと思う。現在踊りを習い始めて5か月ちょっと、4曲目に入ったところで、グループレッスンと個人指導を週に1回ずつ受けている。
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最初の指導
1つの曲は長く複雑であるので、曲を細かく切って少しずつ進んでいく。どのぐらいで切るかはその部分の難しさと習う人の能力によると思うが、私のクラスの場合、わずか数小節で終わることがある。
1節を初めて習うときは、まず先生が踊ってみせるのを見よう見まねでまねをする。当然簡単にまねできないので、何度も繰り返すことになるが、繰り返しながら先生がポイントとなるところを伝えようとする。
その方法として一番よく使われるのは、先生が動きを強調するようにリズムを歌う方法である。これにはある程度決まった表現があるので指導法として伝承されているのかもしれない。(部分的な指導だけでなく、師匠は1曲全部をこのように歌いきることができ、それを聞いたときはちょっとぞくっときた。)
それからもちろん動きを部分的にスローモーションにして強調したり、言葉での指導もある。ちょっと複雑なことを言われても、身振り付きならばまあほぼわかる。言語として完全に理解しているのではないのだが、非常に状況に埋め込まれているので、塊としてわかるという感じである。
何回も先生と一緒に動いてみて、何とかついていけるようになったら、一人でやってみることになる。たいていは、先生が掛け声をかけながらチャングという鼓を大きくしたような打楽器をたたくのに合わせて踊る。これが毎度のことながら一番つらい瞬間である。先生の横ならば何となくできていたはずのものが、見事にまったくできない。手足の動きはばらばら、短いフレーズでも次に来る動きが思い出せなくなる。
そこを先生が辛抱強くもう一度教えなおし、またやってみてだめならもう一度教えなおし、ということを繰り返す。ある程度動けるようになると音楽にのせて前から通してやる。レッスンの終りのころには一人で何となく動くことはできるまでにはなるが、まだいろいろおかしい、ぶざまな動きであることを自分でも感じている。
ちなみに、私はこの最初の指導での飲み込みは年齢と初心者だということを考慮してもかなり遅い方だと思っている。
理解したことを確認する
夜遅くても、レッスンが終わったらその日のうちに復習しておくのが大事だと思っている。個人授業のときはデジカメ動画で師匠の手本の踊りを撮らせてもらえるのでそれを見ながら、動画がなくても思い出せる範囲で何度もやってみる。繰り返す回数は、自分の理解したことを確認して翌日までに忘れない程度である。
このとき、自分の理解したことと、自分が実際にできることにはギャップがあり、そのことを私自身が自覚しているということが重要である。つまり、この踊りに関するイメージは、初回のレッスンでまだまだ不完全であるができていて、でも体がまだそれを再現できないのである。
理解したこととできることのギャップを埋める
このギャップを埋めるのに、毎日朝と寝る前に練習して、たいてい数日はかかる。ギャップを埋める方法は、ここがおかしいと思うところを繰り返しやってみて、動画を確認したり、言われたことを思い出したり、時には少し客観的に考えてみたりする(「基本は合理的にできている」)。
1回習った時点で理解していることは、たいてい間違いを含んでおり、もちろん全体に非常に未熟である。しかし、翌週のレッスンまでに、理解している範囲については実際にはできない、ということはほぼなくなっている。理解したことは相応の努力をすればできるようになるということは、(もちろん私がまだほんの初級にあるからそういうことが起こるのかもしれないが、)私にとっては新鮮な驚きである。楽器の習得やスポーツでも同じようなことがあるのだろうか。
身体的なイメージ
体で覚えるということをよくいうが、体で覚えるということにも理解と実現という2段階があり、理解をすることが実現可能性を(100%ではないかもしれないが)生むということなのかもしれない。体で覚えるときの「理解」のかなりの部分は言葉で表現できない。無理に言葉で表現しようと思えばある程度できるかもしれないが、それは比喩であったり、後付けの論理にすぎず、実体は一種の内的なイメージのようなものである。
実践的には、このイメージから直接どう踊るべきかを知るというよりも、そのイメージを基準に自分の動きが「違う」かどうかを判断しているように感じている。違う、違う、と思いながら何度も繰り返すうち、これなら許容範囲かな、これは結構いいんじゃないかな、という動きに達するのである。
吉田秋生の夜叉というマンガに、遺伝子操作により神経の伝達能力が異常に発達した主人公が拳法の達人の動きを1回見ただけで再現してしまう場面がでてきたが、例え私がそのようなうらやましい脳を持っていたとしても、先生の動きを寸分たがわずコピーできれば良いのかというとそうでもないような気がする。ある踊りを習うということは、動きをコピーすると言うことではなくて、踊り手が持っている身体的なイメージを伝えるということ、それが体で覚えるときの理解ということなのかもしれない。師匠が弟子にいかに厳格に教えても、体の構造や身体能力、脳の働きは人によって、また、状況によって異なるから、結果的に表現される踊りは決して同じにはならない。
ところで、イメージと言うと視覚的なものに思えるが、そうでもないのである。先生の動きを見てまねをすることが学習の最初のステップであり、動画を見ることも理解を助けになるのは確かであるのだが、その絵が頭にあって判断しているわけではなく、自分自身の動きを直接体で感じてこれは違うとか判断しているようなのだ。だから自分の動きを鏡で見ることのできない家での練習も可能である。(チェックできたほうが便利なときもあるが、意外に必要ない。)
それから、耳から来る感覚も大事なようである。習っている曲の音楽を最近まとめてもらったのだが、家で練習するときに音楽がある効果はめざましかった。韓国の伝統的な音楽においてはリズムが非常に大事でなかなか複雑にできている。(大曲になると転調ならぬ転リズムが何回もあったりする。)細かい動きがわからなくなったとき、リズムをよく聞くとそこに答えがあることがある。
2回目以降のレッスン
次にレッスンに行ったときは前回の復習からやることになるが、このとき、間違えて覚えていることや、よくわからなかった部分がほぼ直されることになる。このとき新たに得た理解を持ち帰って復習すれば、とりあえず踊るという低いレベルではあるが、第1段階は完成である。
その後、全体の通しや前にやった曲を踊る機会はたびたびあるので、2回目までに直しきれなかった部分やさらによくするための指導は随時入る。それから、もう一つ重要なフィードバックの機会は、先生が一緒に踊ってくれる時である。タイミングや呼吸、表現などを覚えるのにはそれが一番でよいだけでなく、ある程度覚えた時点で上手い人と踊るというのはなかなかの醍醐味である。
また、特に指摘されたわけでもなく、だいぶ時間が経ってから、ある時自分で踊っていて突然気づく、ということもある。自分で突然気づくことは、大抵何か重要なことである。このあたりはほとんど意識の外の作用で起こっているとしか思えない。(実はこのような経験は、踊りのような身体感覚中心の行為だけでなく、論理的な思考が中心であるはずの本業の研究でも時々ある。)
この間書いてみた自己流の譜は、2回目のレッスンが終わった時点ではまだ書けなくて、その後数週間踊りこんだ後で書けるようになる感じである。ここまで来ると、下手なりに思いきり楽しんで踊れるようになる。
これだけまじめにやっていると当たり前というべきか、自分でも上達のスピードは目覚ましいものがあると思う。昨日の発表会では緊張して見事に失敗したが・・・
基本とは何か
ところで、レッスン中の先生の踊りは、同じ踊りでも舞台公演での先生の踊りとは全然違う。レッスン中はできるだけくずさず装飾的な動きをつけず、シンプルな動きを見せてもらっているような気がする。舞台の上の踊りをいきなり見せられたら、複雑すぎて生徒にはとてもまねができないということもあるだろう。しかし、もっと本質的には、表現の部分は即興的で毎回変わっていくということだ。踊りには変えてはいけない部分と可変部分が存在し、先生が生徒に伝えたいことは変えてはいけない部分と、可変部分を変えるときに守るべきことの基本法則のようなものだと思う。
この基本原則のようなものは曲のレベルでもあるし、韓国の伝統舞踊の中のカテゴリーのレベルでもあるし、もっと普遍的な(国や時代を限らず)踊り全般のレベルでもあるように思う。そしてその大部分はなかなか正確に言葉にできない領域にある。前に「4拍1セットのときは2拍目と4拍目で重心を落とす」という例を書いたが、これなどは基本中の基本のごく表層にすぎない。少しでも言語化する努力には意味があると思うが、大部分は身体的なイメージの底に沈んでいてなかなか取りだせない。
しかし、師匠を見ていると、何が基本で何が基本でないのか、ご本人の中ではかなり明確に区別できているのを感じる。はっきり言えるのは「それは違う」ということだけで、それ自体が何なのかはごく簡単な原則以外はなかなか概念化できない。それを時間をかけて伝えていくのが伝承ということなのかもしれない。
もちろん、流派によって、踊り手によって、基本に対する考え方は異なるし、師匠から弟子に伝承されるときにも、いかに優秀な弟子であっても正確に同じものが伝わるわけではない。それでも、底流に流れている何か共通したものがあるのは確かなのだと思う。
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韓国語で概念的な話をされるとわからないと書いたが、時間とお互いの努力があれば可能で、師匠とは、個人指導の休憩時間などに、筆談(ハングルを書いてもらって私が辞書で調べる)を交えて結構深い話をするようになってきている。
上に書いたことは、私が踊りを習っていくうちに自然に考えたことであるが、少しずつ話しているうちに、師匠は実はこの基本とは何かということを非常に意識的に探究されている方だということが後からわかってきた。(その話はまた別の機会にしようと思う。)言葉にしにくいものの理解を考えているうちに、それを実践で究めようとしている方に出会えたのである。
師匠のチョン・ジュミ先生とは感性的にもとても相性が良く、人生において最も大切な縁の一つになるような気がしている。私が滞在している研究所の所長のハン先生の紹介で軽い気持ちでグループレッスンに参加し始めて1か月ぐらい、まだ右も左もわかっていない(今でもわかっていないが)頃、師匠が来週から個人指導を始めるから、とおっしゃったのがこのようにハマるきっかけだった。その頃はちょっと押され気味だったのだが、今ではとてもとても感謝している。


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