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December 2007

2007.12.30

技能の学習・伝承に関するメモ

前々から、組織に存在する知識や技能を伝承したり、学習を促すために情報技術をどのように使ったらよいのかに興味を持っていたのだが、韓国に来て図らずもそのテーマを考えるのに大変良い経験を得ることができた。今までに何回か書いているが、韓国の伝統舞踊を習うという機会である。

情報技術を使うというと、明示的、構造的な知識を保存するという発想になりがちだが、私が目をつけているのは、「言葉にしにくいものを理解する」ことを情報技術が支援できるのではないかという点である。

言葉にしにくいものの理解というのはあらゆる局面で存在するが、踊りを教える・習う場では、理解させよう・しようとするもののほとんどが言葉にしにくいものである。それに加えて、私のケースは、先生との間で言葉があまり通じないという、なかなかおもしろい状況にある。

おもしろいと他人事のように書いているが、実際のところ言葉の問題で、簡単な伝達事項すらわからなくて行き違いがあることは時々あり、また、概念的な話を一方的にされるとまったくわからない。しかし、踊りの学習については、私もおそらく師匠の方もほとんどストレスを感じていないし、韓国人の他の生徒に比べてコミュニケーションが不足しているということはまったくないというのが実感である。これがなかなか不思議なところである。

さて、まだ全く論じたりする段階ではないのだが、今現在経験していること、感じたことを後々のためにメモしておこうと思う。現在踊りを習い始めて5か月ちょっと、4曲目に入ったところで、グループレッスンと個人指導を週に1回ずつ受けている。

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最初の指導

1つの曲は長く複雑であるので、曲を細かく切って少しずつ進んでいく。どのぐらいで切るかはその部分の難しさと習う人の能力によると思うが、私のクラスの場合、わずか数小節で終わることがある。

1節を初めて習うときは、まず先生が踊ってみせるのを見よう見まねでまねをする。当然簡単にまねできないので、何度も繰り返すことになるが、繰り返しながら先生がポイントとなるところを伝えようとする。

その方法として一番よく使われるのは、先生が動きを強調するようにリズムを歌う方法である。これにはある程度決まった表現があるので指導法として伝承されているのかもしれない。(部分的な指導だけでなく、師匠は1曲全部をこのように歌いきることができ、それを聞いたときはちょっとぞくっときた。)

それからもちろん動きを部分的にスローモーションにして強調したり、言葉での指導もある。ちょっと複雑なことを言われても、身振り付きならばまあほぼわかる。言語として完全に理解しているのではないのだが、非常に状況に埋め込まれているので、塊としてわかるという感じである。

何回も先生と一緒に動いてみて、何とかついていけるようになったら、一人でやってみることになる。たいていは、先生が掛け声をかけながらチャングという鼓を大きくしたような打楽器をたたくのに合わせて踊る。これが毎度のことながら一番つらい瞬間である。先生の横ならば何となくできていたはずのものが、見事にまったくできない。手足の動きはばらばら、短いフレーズでも次に来る動きが思い出せなくなる。

そこを先生が辛抱強くもう一度教えなおし、またやってみてだめならもう一度教えなおし、ということを繰り返す。ある程度動けるようになると音楽にのせて前から通してやる。レッスンの終りのころには一人で何となく動くことはできるまでにはなるが、まだいろいろおかしい、ぶざまな動きであることを自分でも感じている。

ちなみに、私はこの最初の指導での飲み込みは年齢と初心者だということを考慮してもかなり遅い方だと思っている。

理解したことを確認する

夜遅くても、レッスンが終わったらその日のうちに復習しておくのが大事だと思っている。個人授業のときはデジカメ動画で師匠の手本の踊りを撮らせてもらえるのでそれを見ながら、動画がなくても思い出せる範囲で何度もやってみる。繰り返す回数は、自分の理解したことを確認して翌日までに忘れない程度である。

このとき、自分の理解したことと、自分が実際にできることにはギャップがあり、そのことを私自身が自覚しているということが重要である。つまり、この踊りに関するイメージは、初回のレッスンでまだまだ不完全であるができていて、でも体がまだそれを再現できないのである。

理解したこととできることのギャップを埋める

このギャップを埋めるのに、毎日朝と寝る前に練習して、たいてい数日はかかる。ギャップを埋める方法は、ここがおかしいと思うところを繰り返しやってみて、動画を確認したり、言われたことを思い出したり、時には少し客観的に考えてみたりする(「基本は合理的にできている」)。

1回習った時点で理解していることは、たいてい間違いを含んでおり、もちろん全体に非常に未熟である。しかし、翌週のレッスンまでに、理解している範囲については実際にはできない、ということはほぼなくなっている。理解したことは相応の努力をすればできるようになるということは、(もちろん私がまだほんの初級にあるからそういうことが起こるのかもしれないが、)私にとっては新鮮な驚きである。楽器の習得やスポーツでも同じようなことがあるのだろうか。

身体的なイメージ

体で覚えるということをよくいうが、体で覚えるということにも理解と実現という2段階があり、理解をすることが実現可能性を(100%ではないかもしれないが)生むということなのかもしれない。体で覚えるときの「理解」のかなりの部分は言葉で表現できない。無理に言葉で表現しようと思えばある程度できるかもしれないが、それは比喩であったり、後付けの論理にすぎず、実体は一種の内的なイメージのようなものである。

実践的には、このイメージから直接どう踊るべきかを知るというよりも、そのイメージを基準に自分の動きが「違う」かどうかを判断しているように感じている。違う、違う、と思いながら何度も繰り返すうち、これなら許容範囲かな、これは結構いいんじゃないかな、という動きに達するのである。

吉田秋生の夜叉というマンガに、遺伝子操作により神経の伝達能力が異常に発達した主人公が拳法の達人の動きを1回見ただけで再現してしまう場面がでてきたが、例え私がそのようなうらやましい脳を持っていたとしても、先生の動きを寸分たがわずコピーできれば良いのかというとそうでもないような気がする。ある踊りを習うということは、動きをコピーすると言うことではなくて、踊り手が持っている身体的なイメージを伝えるということ、それが体で覚えるときの理解ということなのかもしれない。師匠が弟子にいかに厳格に教えても、体の構造や身体能力、脳の働きは人によって、また、状況によって異なるから、結果的に表現される踊りは決して同じにはならない。

ところで、イメージと言うと視覚的なものに思えるが、そうでもないのである。先生の動きを見てまねをすることが学習の最初のステップであり、動画を見ることも理解を助けになるのは確かであるのだが、その絵が頭にあって判断しているわけではなく、自分自身の動きを直接体で感じてこれは違うとか判断しているようなのだ。だから自分の動きを鏡で見ることのできない家での練習も可能である。(チェックできたほうが便利なときもあるが、意外に必要ない。)

それから、耳から来る感覚も大事なようである。習っている曲の音楽を最近まとめてもらったのだが、家で練習するときに音楽がある効果はめざましかった。韓国の伝統的な音楽においてはリズムが非常に大事でなかなか複雑にできている。(大曲になると転調ならぬ転リズムが何回もあったりする。)細かい動きがわからなくなったとき、リズムをよく聞くとそこに答えがあることがある。

2回目以降のレッスン

次にレッスンに行ったときは前回の復習からやることになるが、このとき、間違えて覚えていることや、よくわからなかった部分がほぼ直されることになる。このとき新たに得た理解を持ち帰って復習すれば、とりあえず踊るという低いレベルではあるが、第1段階は完成である。

その後、全体の通しや前にやった曲を踊る機会はたびたびあるので、2回目までに直しきれなかった部分やさらによくするための指導は随時入る。それから、もう一つ重要なフィードバックの機会は、先生が一緒に踊ってくれる時である。タイミングや呼吸、表現などを覚えるのにはそれが一番でよいだけでなく、ある程度覚えた時点で上手い人と踊るというのはなかなかの醍醐味である。

また、特に指摘されたわけでもなく、だいぶ時間が経ってから、ある時自分で踊っていて突然気づく、ということもある。自分で突然気づくことは、大抵何か重要なことである。このあたりはほとんど意識の外の作用で起こっているとしか思えない。(実はこのような経験は、踊りのような身体感覚中心の行為だけでなく、論理的な思考が中心であるはずの本業の研究でも時々ある。)

この間書いてみた自己流のは、2回目のレッスンが終わった時点ではまだ書けなくて、その後数週間踊りこんだ後で書けるようになる感じである。ここまで来ると、下手なりに思いきり楽しんで踊れるようになる。

これだけまじめにやっていると当たり前というべきか、自分でも上達のスピードは目覚ましいものがあると思う。昨日の発表会では緊張して見事に失敗したが・・・

基本とは何か

ところで、レッスン中の先生の踊りは、同じ踊りでも舞台公演での先生の踊りとは全然違う。レッスン中はできるだけくずさず装飾的な動きをつけず、シンプルな動きを見せてもらっているような気がする。舞台の上の踊りをいきなり見せられたら、複雑すぎて生徒にはとてもまねができないということもあるだろう。しかし、もっと本質的には、表現の部分は即興的で毎回変わっていくということだ。踊りには変えてはいけない部分と可変部分が存在し、先生が生徒に伝えたいことは変えてはいけない部分と、可変部分を変えるときに守るべきことの基本法則のようなものだと思う。

この基本原則のようなものは曲のレベルでもあるし、韓国の伝統舞踊の中のカテゴリーのレベルでもあるし、もっと普遍的な(国や時代を限らず)踊り全般のレベルでもあるように思う。そしてその大部分はなかなか正確に言葉にできない領域にある。に「4拍1セットのときは2拍目と4拍目で重心を落とす」という例を書いたが、これなどは基本中の基本のごく表層にすぎない。少しでも言語化する努力には意味があると思うが、大部分は身体的なイメージの底に沈んでいてなかなか取りだせない。

しかし、師匠を見ていると、何が基本で何が基本でないのか、ご本人の中ではかなり明確に区別できているのを感じる。はっきり言えるのは「それは違う」ということだけで、それ自体が何なのかはごく簡単な原則以外はなかなか概念化できない。それを時間をかけて伝えていくのが伝承ということなのかもしれない。

もちろん、流派によって、踊り手によって、基本に対する考え方は異なるし、師匠から弟子に伝承されるときにも、いかに優秀な弟子であっても正確に同じものが伝わるわけではない。それでも、底流に流れている何か共通したものがあるのは確かなのだと思う。

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韓国語で概念的な話をされるとわからないと書いたが、時間とお互いの努力があれば可能で、師匠とは、個人指導の休憩時間などに、筆談(ハングルを書いてもらって私が辞書で調べる)を交えて結構深い話をするようになってきている。

上に書いたことは、私が踊りを習っていくうちに自然に考えたことであるが、少しずつ話しているうちに、師匠は実はこの基本とは何かということを非常に意識的に探究されている方だということが後からわかってきた。(その話はまた別の機会にしようと思う。)言葉にしにくいものの理解を考えているうちに、それを実践で究めようとしている方に出会えたのである。

師匠のチョン・ジュミ先生とは感性的にもとても相性が良く、人生において最も大切な縁の一つになるような気がしている。私が滞在している研究所の所長のハン先生の紹介で軽い気持ちでグループレッスンに参加し始めて1か月ぐらい、まだ右も左もわかっていない(今でもわかっていないが)頃、師匠が来週から個人指導を始めるから、とおっしゃったのがこのようにハマるきっかけだった。その頃はちょっと押され気味だったのだが、今ではとてもとても感謝している。

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2007.12.29

とちった~

伝統舞踊の教室の発表会だった。

う、うー。今日は記録のためプロのカメラマンが来ていて、すごく近くに寄られて連写されたら、完全にあがってしまい、2度も頭の中が真っ白になってしまった。

もともとわりと緊張するほうではあるが、本番で真白というのは生まれて初めて。特に最近では、仕事関係で大勢の人の前で話すのは平気になっていたので油断していた。

教室の皆さんには、大丈夫大丈夫と暖かくなぐさめていただいたが、チームのみなさん、ごめんなさい~

それにしても、韓国の人たちは本番にめちゃくちゃ強いわ~

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2007.12.25

Baldwin, C.Y. and K.B.Clark「デザイン・ルール」その4

その1その2その3から続く。

ああ、やはりこのテーマだといくらでも書いてしまう・・・最後に短いメモをいくつか。(ますます、この分野になじみがない方には何のことやらわからないかもしれません。すみません。)

「隠された」「可視」という言葉の意味

「隠された」(カプセル化とも言う)、「可視」は、重要なキーワードであるが、少し誤解されやすい言葉遣いかもしれない。「隠された」というと見たくても見えないという感じを受けるが、概念的には見なくてもよいという意味に近い。「可視」は見えるというよりも、見なくてはならない、に近い。

オープンソース・ソフトウェアやオープン・イノベーションの研究をやっていると、この違いが気になってくる。オープンソースは、文字通り中身が全部外から見えるわけだが、共通規則やインターフェースを除けば他のモジュールをつくるときにいちいち参照しなくてもよいモジュール構造であり得る。

ただ、中身が全部見えるということが、その2に書いたインターフェースの仕切り直しを引き起こすことは十分考えられる。オープンソース・ソフトウェアだけでなく、近ごろ私は、技術がモジュールとしてではなく、その内部まで開示されることいよって、今まで繋がりのなかった主体が結びつき、相互に緊密に調整しながら技術を進化させていくような現象がおこらないかということを考えている。

製品構造とタスク構造

本書が主張するとおり、製品(設計)構造とタスク構造は基本的同形性を持っている。ただし、これはある程度マクロの視点で言えることであって、具体的にタスク構造を設計する人にとっては両者は「同じ」ではないことに留意が必要だ。

情報技術のインパクトを研究していると、情報技術が導入されることによって、他の条件が一定でも、今までよりも相対的に相互調整がしやすくなったり、反対に、タスクが分離されることをよく観察する。今の情報技術は調整の技術としてこの両方に作用する潜在的な力を持っており、どう使うかは使う人の裁量に任せられている。ITの導入に限らず、タスク構造をデザインするときは、ある製品設計構造に対して自動的にタスク構造が決まるとは思わないほうがよい。

製品構造のモジュール性は高くてもあえてインテグラルな調整を残すとよい場合は、例えば、モジュール化による学習の障害が懸念されるときや、およびモジュールの仕切り直しを歓迎すべきときである。マトリックスはあくまで静的な分析なので、将来知識のベースをどのように進化させていくべきかを考慮するのである。

インテグラルな製品構造を維持したままタスクを分離するというのも、情報技術やその他の支援技術によってある程度は可能な場合がある。例えば、極端な薄型化が進んでいるる製品分野では、3次元CADやシミュレーション技術がなければ、タスクの相互依存性が高すぎてそもそも製品化不可能であったという例がたくさんある。

構造と機能

モジュールの定義は研究者によって微妙に違うが、サブシステムと機能が一対一の対応関係を持っていることを条件にしている定義もある。この本ではそれは採用していないようで、私も賛成である。

何が機能かというのは実は難しく、後付けであるモジュールの機能が独立しているように定義することはいくらでもできるので、どうしても恣意的になってしまうのだ。また、「抽出」やインターフェースの仕切り直しの可能性を考えると、定義に含めないほうが良いように思う。

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2007.12.24

Baldwin, C.Y. and K.B.Clark「デザイン・ルール」その3

その1その2から続く。

ソフトウェアは実はモジュール化しにくい?

前回、物理的な特性に左右されやすく、インプットとアウトプットを情報に代えにくい製品は、モジュール化しにくいと書いたが、それが正しいとしたら、一般にソフトウェアはハードウェアよりモジュール化しやすいはずである。それにも関わらず、私はハードウェアよりもソフトウェアの方がモジュール化しにくいのではないかと思っている。それは、おそらく複雑性の桁が違うからである。

ハードウェアとソフトウェアのようなまったく違うものの複雑性を同じ尺度で測るのは難しい。本書ではコストで複雑性を測っているが(表11-1)、これはかなりソフトウェアの複雑性が過少評価されているだろう。ソフトウェアのコスト構成においてはほとんどが相互調整のタスクの費用であるのに対し、ハードウェアには材料費や単純な作業人件費が含まれている。

それらよりもはるかに大きいのは、探索されなかった選択肢の機会コストの大きさがここには含まれていないことである。ソフトウェアの潜在的な選択肢の多さ、あるいは、前提の自明性のなさは、ハードウェアの比ではないと思っている。(その1「マトリックスに並べる項目はそんなに自明ではない」参照。)

ハードウェアは、さまざまな物理特性が設計者にさまざまな制約を課すため、通常設計者が意識していないところで自然と選択肢が絞られる。また、伝統的なモノには概念モデルがあるため、それがさらに大きな前提となる(「ソフトウェアの達人」)。

ソフトウェアは、以前ソフトウェアのデザイン独特の問題として書いたことがあるように、概念モデルが確立されていないことが多い上、ある目的に達するためには無数の方法が考えられる。

ソフトウェアのデザインは、設計というよりも表現に近いものだ。ソフトウェアでは、ある目的を達成するための正しい設計を探すと考えるのはむなしくさえある。ハードウェアでは決して許されない水準で設計不良(バグ)が出るのも、一つにはあまりに選択肢が多すぎて検証しきれないためである。

選択肢が膨大であるためモジュール化が難しいが、だからこそ、モジュール化しなければどうにもならないというのが、ソフトウェア分野のおかれている状態である。ソフトウェア工学分野においてモジュールの概念が発展してきたのはそのためである。

ソフトウェアの世界でモジュールをうまく選択してシステムをつくりあげていくには、ハードウェアほどには精密なシステムを求めないことである。部分的には不便なところがあっても全体としてプラスの価値があるものができれば良しとする。モジュール提供企業が競争して次々良いものが出てくるのを待ち、入れ替えてシステムを進化させていく。

日本では、ユーザー企業もモジュールを組み合わせてシステムを構築するのに慣れていないし、それと裏表であるが、情報システム産業が委託開発中心のビジネスモデルからいまだに抜け出ることができていない。日本の製造業は、世界を席捲するようなデザイン・ルールは提案できていないかもしれないが、ハイエンドのモジュールの提供ではかなり健闘している。しかし、ソフトウェア分野では、国際的なモジュール競争にほとんど参加することさえできていない。製造業よりも、情報システム産業の方が荒治療が必要なのかもしれない。

その4につづく。次回こそ終わり。

(それにしても、クリスマスイブにこのようなオタクな記事を書いている私って・・・)

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2007.12.23

Baldwin, C.Y. and K.B.Clark「デザイン・ルール」その2

その1から続く。

モジュール型とインテグラル型(相互連関型)ではどちらが柔軟性があるか

日本の経営学で割と好んで語られるストーリーに、モジュール型は技術革新を阻んだり、環境変化に柔軟ではないというのがある。この本にはまったく反対のことを書いてあるわけだが、どこがすれ違っているのだろうか。

まず、単純な誤解として、モジュールの中身が標準化されることとインターフェースが標準化されることが混同されている場合がある。日本の経営学で研究対象としてよく選ばれるのは機械エレクトロニクス製品だが、特に機械系のインターフェースは内部構造を規定してしまう程度が高いことも混乱の原因になっていると思う。物理的な特性に左右されやすく、インプットとアウトプットを情報に代えにくい製品はモジュール化するにしても限界があるだろう。

次にインターフェースが固定されるとシステム全体として仕切り直しが必要な技術革新が阻まれる可能性があるという論点である。これには、一理ある。

この本では、システム全体のインターフェースの仕切り直しが視野に入っていないわけではない。複数のモジュールの中に共通して存在する部分を「抽出」して新しいデザイン・ルールをつくるというのがそれである。抽出は重要なアーキテクチャル・イノベーションだが、これはモノゴトを要素に分解し還元していく方向性を持っている。分離されていたものを再び統合し、改めて線を引きなおす、という発想が見られないのだ。私もそこには違和感を感じてしまう。

「再統合」のオペレータは要らないのだろうか?おそらく、インターフェースを何度も引きなおすのとインテグラル型はどう違うのかという話になるのだろう。むしろモジュール型では、業界の中にまったく異なるデザイン・ルールが複数出現することもあり得るので、デザイン・ルール同士が競争し淘汰されていくことを通じて柔軟性を確保すると考えるほうがよいのだろう。どちらが柔軟性があるかは一概に言えない。

また、タスクがモジュールに分解されると人々の学習が特定領域に限定され、デザイン・ルールを改善したり、新しく創り出す力を損なう恐れがある。これには組織体制や労働市場のあり方にも関係しているが十分考えられることである。ただ、日本企業が柔軟な職域やサプライヤーとの協業によって高品質なものを作り出しているということは言えても、世の中を席捲するようなデザイン・ルールを次々と作り出しているかどうかは疑問である。デザイン・ルールを作る人はシステム全体の相互作用に関する深い理解を必要とするが、その力を品質向上以上のレベルで発揮できるかどうかは、別の要因が絡んでいるのかもしれない。

三番目に、システムの範囲を広げることの威力というものが日本ではどうしても過少評価されがちである。この本では「追加」および「転用」のオペレータということになるが、さまざまな新しいモジュールが現れ、それらをつなぎ合わせることによってシステム全体として当初はまったく予期できなかったものが現れるというのは、IT関連産業が実現して見せたとおりである。システムの領域を広げることを通じて全体としての革新と柔軟性を得るのだ。

日本企業は、個々の技術ではもはやキャッチアップではなくても、全体として今までにないアーキテクチャ、デザイン・ルールを構想することはいまだに苦手である。(ここで言っているのは、あくまでアーキテクチャの構想であってモジュールの中身など細部に至るまでの計画ではない。)企業だけでなく、社会全体として、全体構想は既存のものを持って来たがる傾向があるのではないだろうか。つまり、システムの領域は所与として考え、その中でパフォーマンスを高めようとするので、比較するとインテグラル型の方が優位であるように思えるのだ。

最後に、上の2つの要因にも関係しているが、日米では資本市場、起業環境、労働市場が異なることが大きい。本書でも繰り返し述べられているように、モジュール型のメリットを得るには、モジュールを提供する企業が多数現れ、ファイナンスされ、技術者が供給され、競争を通じて評価され淘汰されていく必要があるのである。

環境が異なるから日本はインテグラル型で、とか、諸制度をとにかく米国式に、とかでうまくいくほど話は単純ではないことは確かであるが、それにしても、日本の産業社会にデザイン・ルールを自ら作り出し、業界全体(もちろん世界レベルで)に伝播させていくエネルギーがもっとあっても良い。経営学からもその助けになるような仕事がたくさん出てくる良いと思う。

その3につづく。

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2007.12.22

Baldwin, C.Y. and K.B.Clark「デザイン・ルール」その1

Baldwin, C.Y. and K.B.Clark, "Design Rules: The Power of Modularity," MIT Press, 2000.

(安藤晴彦訳「デザイン・ルール」東洋経済新聞社)

私は現在いる世界に入るきっかけとなった出来事をはっきり覚えている。1994年修士2年のゼミで、私がモリス・ファーガソンの「アーキテクチャーを制するものが情報技術産業を制する」という論文をレビューしたとき、師匠の目がきらっと光ったのだ。

私はもともと学者になるつもりはまったくなかったが、企業に勤めていたとき当時急激に進んでいたダウンサイジングやネットワーク化が会社の組織に強い影響を与えていることを肌に感じていて、これについて考えてみたいと思ってビジネススクールに入りなおしていた。アーキテクチャ、モジュールといった概念と出会うのは当然のなりゆきであり、それが縁でこの道に入ったのである。

さて、一度この本のレビューを書いておこうと前から思っていてソウルに持ってきていたものの、どっぷり浸かっている世界なので案外書きにくく(というより書いたら止まらないのかも)、ちょっと変則的な形で何回か書いてみようと思う。未読の方には内容がわかりにくいかもしれないがご容赦を。大変論理的に精緻に書かれた本なので、興味を持った方は是非読んでいただきたい。損はしないはずである。

もし私が経営コンサルタントでDSM、TSM分析の導入を企業から相談されたら

DSM、TSMとは、製品設計構造とタスク構造の要素間の相互依存性をマトリックスにした表で、簡単にいえば要素間の相互依存性がいくつかのブロックに集中してそれ以外の要素に飛び散らない状態がモジュール化された構造である。製品やタスクをモジュール構造にすることのパワーについて述べたこの本を読んだ日本企業の方からDSM、TSMの作り方を相談されたとしよう。たぶん私はこのように答えると思う。

-今まで自社や協力企業に特注して作っていた部分、あるいは新たに付け加える部分を市販品にすることを検討する余地はあると思いますか。

実際そうするかどうかは別として、検討する意思が「ある」ならば分析する価値は必ずある。「ない」場合は次の質問。

-顧客に提供している機能はそれほど急激には変わらないでしょうか。かつ、年々設計の複雑性が増大していて手に負えなくなっているでしょうか。

機能の急激な変化というのはあいまいな表現だが、例えばコピー機をつくっていて年々高速化したりメニューに新しい機能が付け加わるぐらいでは、ここでは急激な変化とは呼んでいない。今までのコピー機の概念とは異なるような製品を出したり、顧客層がまるで異なるような場合は急激な変化である。

機能が急激には変わらなくて、設計の複雑性が増大して困っているなら、DSM、TSM分析を試してみる価値はあるかもしれない。設計の複雑性の増大は当たり前だが、なぜ機能が安定している場合なのだろうか。

それは決して製品システムが提供する価値の性質が急激に変化する場合にモジュール性を検討することは意味がないからではない。むしろ、ある条件下では、モジュール化が不可欠になる。そうではなくて、

マトリックスに並べる項目はそんなに自明ではない
ということが問題になるからである。

本年のこの読書日記に繰り返し出てきたテーマとして、この世に存在している選択肢の見積もりの難しさというのがある。実際に作業に入ってみると、製品設計構造にしろ、タスク構造にしろ、何を項目に立ててよいのか迷わない人はいないと思う。試しに項目をつくる作業を何人かで別々に作ってみると、人によってかなりばらばらになるのではないか。

この本は、この世を多数の要素とその相互関係として捉える、Winogradの言う合理主義的伝統に典型的にのっとっている。ものごとが複雑であるほど、要素(選択肢)の数と相互関係絡み合いが多くなる。私が「マインズ・アイ」のレビューで書いたこともそのような世界観に基づいている。

しかし、あらゆる選択肢にはそもそも何らかの前提が必要であり、関わる人間の前提をすべて明示することは不可能であるという見方(「コンピュータと認知を理解する」)では、要素と相互関係の数の問題ではないことになる。

本質的には後者かもしれないが、実用的にはあらかじめ大きな制約があるときは制御可能な範囲で選択肢を選ぶことができるかもしれない。設計や生産方法の選択肢がどれだけ多様かということよりも、そもそもある製品が提供する機能に変化がどの程度あるのかが一番効く。また、一般にソフトウェアはハードウェアよりも制御しにくい(これについては後で書くつもりである)。

そこそこ機能が安定していて複雑性が高まっているのでやってみようということになれば、マトリックスを作成する作業に入る前に、そもそも項目に何を並べるのが適当かを検討するのに一番時間をかけるべきである。ここで誰かがとりあえず作ったものを自明なことのように受け入れたり、どこかの本に書いてあるものを持ってきてはいけない。われわれは何をどのように作り出しているのか、その相互依存性を捉えるのにどのような項目を立てることが一番実用的かをなるべく多様なバックグラウンドを持ったチームで検討すると良いと思う。2回目以降は楽になると思うが、最初は大変手間がかかるので、それに見合う複雑性の爆発に困っているときだけ、ということになる。

一方、そもそも何を作り出すべきかを検討しなければならないケースでは、DSM、TSMのような要素還元的な手法は禁物である。無意識の前提を覆さなければならないときに強力な或る前提のもとで作業をすることになるからである。(繰り返すがモジュール性を検討することがいけないのではなく、マトリックスをつくることがよくないのである。)

閉じた生態系ではモジュール化から得られるメリットには限界がある

ただし、最初の条件にあるように、同時に市販部品を採用することに検討する場合は別である。相互依存性の分析は市販部品の採用の意思決定に単に有用であるというだけでなく、市販製品には必ずインターフェースがあり、あるインターフェースの存在を前提にするとただそれだけで選択肢を制御可能な範囲に狭めることができる可能性が高いからである。

この本の重要な主張の一つは、モジュール化をある企業の閉じた生態系(ある企業の独自の仕事のやり方を受け入れてくれる協力企業も含む)の中で行うことは、技術的にはできるが、その価値を評価し淘汰してくれる外の世界がないので十分なメリットが引き出せないという点であるが、このように考えると、技術的にも難しいということがわかる。閉じた生態系では、モジュール化を検討する作業自体が見合ったものになるのは上の2番目の質問にあるような限定的な条件下であり、また、そのメリットも開かれた生態系における場合に比べて格段に小さくなるのである。

その2につづく。

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2007.12.18

形式知?

習っている伝統舞踊は、帰国後必ず忘れていくと思うので、自己流の譜をつくり始めた。

よく見えないかもしれないが、左右の手・足、体の向き、その他について一拍ずつ位置や動きを略字で書いてある。

Test_3

これは一曲のごく一部。書いてみると、めちゃくちゃ複雑だということがよくわかった。ただでさえ一曲が長くて繰り返しがないのに、習ったものを全部書く根気がでるだろうか・・・

しかし、これを見れば、私が現時点で理解したところまではこの先も再現できると思う。ただし私だけ。それと、たぶん、一緒に習った人も略字の内容をハングル訳すればこれを見てかなり再現できると思う。

こういうのを形式知と呼びがちだが、これはどちらかというと、言葉にならない理解を喚起するメディアとしての役割を果たしている。実地で習っていない人にはこれから絶対再現はできないと思う。これ自体に自律的な知があるかどうかというと、ほとんど否だと思う。

明示的な表現がもっとはるかに標準化されていて、直接教えてもらわなくても再現できるものの典型例は西洋音楽の楽譜である。しかし、実は言葉にならない理解がそこにまったくないのかというとそうではないだろう。

特にクラシックでは楽譜を忠実に再現することが求められるが、楽器を本格的に習う人が独習でやることはまずなくて、熟達した人に習うことである楽譜に表現された明示的な指示と実際の演奏の間にある、何か言葉にならない理解を身につけていく。やがて、指導者から離れても、その理解の蓄積が演奏者の深く独自性にある表現を可能にするのだと思う。

何か明示的な表現が記録されていることと、それが意味していることが誰にも同じように明確にわかるということを混同してはいけない。実際は、ほとんどの場合、程度の差があっても、明示的な表現が暗黙の理解を喚起する点が重要であって、それは書いてあることとイコールではないだ。

学問の世界でも、ものづくりの現場でも、同じことだ。科学論文の中の数式でさえ、言葉にならない理解を喚起するという側面が含まれていると思う。

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2007.12.17

風邪

大したことはないのだが、昨日の午後から急に調子悪くなり、どうやら風邪のようだ。これだけ寒くて乾燥していると無理はない。

昨夜はスンドブチゲという海鮮だしのおぼろ豆腐の辛いスープに野菜たくさんと卵を入れたものと、豚肉の焼き肉を大量に作って食べ、薬代わりに焼酎をごくごく。うまかった。(だから全然大したことはない・・・)

今日もまだ駄目なので、高滋養、安静生活を続けることに。風邪で太ってしまったらどうしよう。

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2007.12.14

Hofstede, G.「多文化社会」

Hofstede, G."Cultures and Organizations," McGraw-Hill, 1991.

(邦訳:岩井紀子・岩井八郎訳「多文化社会」有斐閣)

国や社会による違いというものは厳然としてあるのだが、世界中の社会を共通の次元でスパッと切って分析することはなかなか勇気のいることで、多くの批判を覚悟しなくてはならない。一つにはそれが単純に難しい作業だからであり、もう一つは研究者自身も研究を受け取る側も必ずある社会の中に埋め込まれているので、どうしてもバイアスが避けられないからだ。

組織文化の比較研究といえばHofstedeの引用というぐらいHofstedeの一連の研究が受け入れられているのは、使われている切り口が「ああ、そうそう、そうだよねー」とかなり多くの人を納得させるからだと思う。

1つ目の次元「権力格差」は特定の権力者に決定をゆだねる傾向である。権力格差が望ましいと考える国では実際に権力格差が大きい傾向がある。(これは考えてみると自明ではない。)ラテン系を除く西欧と北米は権力格差が低く、日本は中の低ぐらいでアジアの中では低い方、ラテン系欧州、アジア、南米、アフリカでは権力格差が高い。日本の位置は何となく納得できる。

一般に米国企業は日本企業に比べてトップダウンの意思決定構造をもつと言われているが、権力格差はそれとはまた別の話のようだ。上司とフレンドリーに話し合えることがトップダウンの弊害の中和剤的な役割を果たしているのかもしれない。

2つ目は個人の利害と集団の利害のバランス感覚である「個人主義-集団主義」の軸である。個人主義は北米・西欧諸国で強く、日本は中位、アジア・南米・アフリカは集団主義が強い。日本はかつてはもっと集団主義が強かったと思うのだが、アジアの中では早めに工業化し核家族化が進んだからなのだろう。

3つ目は、これは私にはやや違和感があるのだが、「男性らしさ-女性らしさ」の次元である。測定の方法は、仕事の目標を給与、承認、昇進、やりがいにおいているほど男性らしく、上司や一緒に働く人との関係、居住地、雇用の保障におくほど女性らしい。なぜ、こんな名前がついているのかというと、前者は男性、後者は女性でスコアが高いからであるが、男性らしい社会では男女の性別役割がはっきりしていて、自己主張の高い態度が望ましいと考えられている、女性らしい社会では性別役割ははっきりしておらず、謙虚な態度が望ましいと考えられていると解釈されている(ここは実証されていないようだ)。そして、男性らしい社会の断トツは日本である。

違和感を感じるのは、突出した言動は嫌われて、控えめな態度が好まれ、できるという確信のない事柄を約束しないように努めるというHofstedeの言う女性らしい社会の特徴はとても男性らしい社会であるはずの日本によくあてはまるからだと思う。(本書では女性らしい社会としてHofstedeの出身国であるオランダが例として挙げられている。オランダ人と日本人の相性はよいかも。)

確かに、(給与はともかく)承認や昇進への欲求が高いのは日本の企業人の特徴だろうと思う。また、断トツかどうかはわからないが、性別役割分担に対する規範的な圧力は強い国だと思う。本来別の次元であるものを一つにしてしまっているという印象がある。

4つ目は、不確実性の回避の傾向である。日本が不確実性の回避の傾向が強いというのはまさにその通り。日本より不確実性の回避の傾向が低い国にいると、自分は何て几帳面だと思えてくる。私は日本人の標準ではそれほどではないと思うのだが。時間を守る、やると言ったことはやるといったことは、相手にとっての不確実性を減少させることによって仕事をやりやすくし、また、自分も相手にそれを期待するためなのだな、とつくづく思う。相手にそれが期待できない場合は成り立たない。

自分がやると言ったことにコミットする傾向というのは、不確実性の回避傾向が低い国の人にとっては窮屈に感じられるとしても、日本人の優れた性質だと思っているのだが、不確実性の回避が章の題名「違うということは危険なことである」というように未知の状況や見知らぬ人間に対する無条件の警戒心となってあらわれることが多々ある。これは、日本人がよく自覚しなければならない欠点だと思う。

不確実性回避が高い国は安全欲求が優先される、というのもなるほどである。日本で「安心安全」を標語にしなければならない理由がここにある。しかし、リスクを考慮した安全対策はもっとよく考えていかなればならないが、とにかく不確実性をゼロにしたい、という欲求に身を任せてはいけないと思う。それはかえって危険なことだ。不確実性ゼロなんてあり得ないのだ。

5つ目は他の研究から出てきた儒教思想をヒントにつくられた次元で、持続性、序列関係、倹約、恥の感覚からなる長期志向と個人的な着実さと安定性、面子の維持、伝統の尊重、挨拶や行為や贈物のやりとりからなる短期志向である。中国、香港、台湾、日本、韓国では長期志向が高く、これが5カ国の経済成長と関連付けられて論じられている。これは理論的な整理がもう少し必要だと思うが、日本と米国の貯蓄性向の違いなどはよく説明できるかもしれない。(不確実性回避のためかもしれないが。)

組織に関する各理論の文化バイアスを論じている6章はおもしろい。こういう見方をすれば、アジアや南米やアフリカなどの社会に埋め込まれた研究者が、自分のバイアスを生かした新しい発想を出し、経営理論に貢献できる可能性が十分あることがわかる。

ところで、異質性の高い社会、例えば米国であると単に違うということで終わってしまうが、今住んでいる韓国は昔の日本が残っているようなところがあり、どんどん変化して今の日本に近くなっているところも、日本と違う方向に行っているところもあるので大変興味深い。

特によく考えさせられるのは集団主義にについてである。韓国は調査の行われた1980年代の時点では、集団主義がかなり高い水準にある。しかし、現在の比較的若い韓国人は、西洋人に比べれば集団主義的には違いないが日本人よりずっと個人主義的な言動をするように感じられる。この20年で韓国が個人主義の方向にかなり急激に変化したこともあると思うが、もう一つには、主観的には集団主義なのだが第三者から見ると個人主義的にふるまっているように見えるという構造があるのではないかと思っている。

韓国人は日常会話でよく「ウリ(我々)」というのだが、その意味はたいていWEと異なり、「この社会」という意味であることが多く、また、「私」の意味で使っていることが少なくない。前者と後者は対極にあるように思えるが、実はこの2つがすごく近いのが韓国社会の特徴のような気がしている。

伝統的には、「ウリ」は村落などの地域社会であり、その中にどっぷりつかっている「私」とそんなに違いがなかったのではないか。近年の韓国ではたぶん日本以上に急激に都市化、核家族化、少子化がすすみ、所属しているゲマインシャフトの範囲が狭まってきているので、「ウリ」が限りなく「私」に近くなっているのではないかと私は推測している。

このあたり、日本とはかなり違う感覚である。日本は韓国に比べればゆっくり近代化したせいか、あるいは他の要因があったのかもしれないが、集団主義的なところを企業組織などに残すことができた。滅私奉公までいってしまうとどうかと思うが、日本のサラリーマンの全般的なモチベーション高さ、チームワークの強さはやはり特筆すべきだと思う。

韓国では、企業組織はあまり「ウリ」ではないようである。以前、日本企業で働いた後韓国に戻り起業した韓国人の経営者が、締め切りが迫っていても社員は残業してでも何とかしようという気がない、外注先のほうがよっぽど期日を守る、とこぼしたことがある。私が、「日本企業だったら上司に言われなくても残業しますよね」と言うと、「そうなんですよねー。私が日本にいたときは当然のように残業しました。」と言っていた。私から見ても韓国に人たちは周りの人にはよく気を遣うのだが、ちょっとフォーマルな場所や関係の薄い場所では連携をつくりにくくなってきているという感触がある。

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2007.12.07

Gershenfeld, N. 「ものづくり革命」

Gershenfeld, N."Fab: The Coming Revolution on Your Desktop-from Personal Computers to Personal Fabrication," Basic Books, 2005)

(邦訳:糸川洋訳「ものづくり革命:パーソナル・ファブリケーションの夜明け」ソフトバンククリエイティブ)

考える「もの」たち」にも出てきたMITのパーソナル・ファブのプロジェクトについて書いた、夢がいっぱい詰まった本である。

今日机の上のプリンターで写真の焼き増しが簡単にできるようになったように、自分が自由にデザインした3次元の形状を実際に使える素材でアウトプットしたり、あらゆる材料を簡単に加工したり、電子回路を簡単にプログラミングしたりすることを誰でも手軽にできるようになれば、社会の隅々からどれだけの創造性を引き出すことができるだろう。

こういうのを夢というのだ。はかり知れない可能性があり、ひとつひとつの要素は十分実現可能であるが、どう実現するかは人類の選択に任されている。

ルネサンスは職人たちが新しいツールと知識、顧客を得て花開いたのだが、リベラルアートという概念からは手を使って何かを作り出すという要素が落ちてしまい、考える人とものをつくる人は分離されてしまった。今こそ、個人が自らものを作り出す機能をとり戻す時であるというのが本書のメッセージである。

私の博士論文のテーマは3次元CADの製品開発プロセスに与えるインパクトであったのだが、このテーマにめぐり合ったきっかけは、何かの展示会で見たラピッドプロトタイピング(試作のための3次元プリンター)であった。これは、ものづくりを変えると直観的に思い、もう博士の3年生になっていたのだが、そこから研究を一から始めたのだった。

その頃から、マスカスタマイゼーションの行きつく先は、デスクトップの3次元プリンターのようなツールで技術者が次々にオーダーメードの製品をつくっていくというイメージを持っていたが、この本はそれよりもはるかに大きな視野を持っている。本書のビジョンでは、パーソナル・ファブリケーションは、製造業だけでなく、技術者や一部の人々だけでなく、先進国だけでなく、世界を変えていく。

まだ高価で使いにくいという問題はあるが、パーソナル・ファブリケーションを構成する技術はすでにほとんど存在しているので、著者らはそれらのツールを持っていけば何が変わるか、大学だけでなく低所得者層の住む地域やインドの田舎、アフリカなど世界中に飛び出して実験してしまった。誠に頭が下がる。苦労話はほとんど書いていないが、きっとものすごく大変だったに違いない。こういうオープンで前向きなところが米国の伝統の最も良いところだと思う。

各地での実験で明らかになったことは、目の前に実現したいことや切実な必要があれば、現在の使いやすいとは言えない工作機械や回路設計ツールも、素人にも子供にも使いこなせるものだということである。著者は、デジタル・デバイドというけれど、パソコンとインターネット回線よりも、貧しい地域の人たちにとっては、むしろ最先端のものづくりの道具のほうが役に立つのではないかと問いかける。カネではなく、モノではなく、モノを自ら作り出す道具を援助するというのは、国際援助のあり方にも一石を投じる考え方だと思う。

発展途上国では技術の潮流からは外れた、忘れられた技術がむしろ活躍するケースがある、という話もおもしろかった。技術の潮流というものは社会的なコンテクストと密接に関係して決まっていくものであるので、考えてみれば当然そういうこともあるだろう。先進国で成功した技術が発展途上国の人々にとって役に立つとは限らない。

分離していたのは、考える人とものをつくる人だけでなく、仕事でと遊びもそうだ。日本ではむしろこちらのほうが大きいかもしれない。創造性が問われる時、ただそれを実現したい、ただそれが楽しいという動機で試行錯誤を重ねる遊びという側面がビジネスの場でも求められるのではないか。また、子供から老人までの創造性のパワーを引き出すことが社会にとってはもちろん製造業にとってもプラスになるに違いない。製造業が単に消費者に意見をきくのではなく、現物が巷でどんどん発明されたり、デザインされてくるものを精錬させて社会に広めるインフラストラクチャになるのである。

ツールに関しては、値段と使いやすさだけの問題である。早くこういう世の中になってほしい。老後は工作婆さんとなって、楽しい毎日を送りたい。

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2007.12.03

Lessig, L.「コモンズ」

Lessig, L. "The Future of Ideas: The Fate of the Commons in a Connected World ," Random House, 2001.

(邦訳:山形浩生訳「コモンズ:ネット上の所有権強化は技術革新を殺す」翔泳社)

Lessigの著作は私の分野では今更紹介するまでもないが、ハードウェア中心の技術経営、技術政策、法務に携わっている方々に読んでいただきたいと思っている。

それは、知的創造をモノの所有権に類似した形でコントロールしすぎることの機会損失は、算定が難しい故に、あまりにも小さく見積もられているかもしれないということである。

ソフトウェアであるとか芸術作品であるとかの知的な創造の成果物は、モノのようにそこに存在するように見えるかもしれないが、知的創造の過程で溢れ出た一時的な形であって、それが究極の形ではない。その一時的な成果物をモノのように扱うと、それが次なるインプットになることを妨げ、社会的な知的創造の連鎖を止めてしまうおそれがある。

特定の個人や組織が為せることはたかが知れている。天才による卓越したアイディアも、大規模な投資によって組織的に生み出されるイノベーションも、過去からの知的創造の連鎖からのインプットがなければ存在しなかったし、それが重要なものであるほど未来の誰かによる創造のインプットになる責任がある。

もちろん、著者はすべてをコントロールすべきではないなどとは言っておらず、バランスの問題であることは十分認識している。しかし、バランスを算定するときに、コントロールによる機会損失が低く見積もられ過ぎ、コントロールがなかった場合のマイナスの効果が過大評価される傾向があるのが問題なのである。未読の方はぜひご一読を。

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2007.12.02

Delanty, G. 「コミュニティ」

Delanty, G. "Community," Routledge, 2003.

(邦訳:山之内靖・伊藤茂訳「コミュニティ:グローバル化と社会理論の変容」NTT出版)

コミュニティという重要な概念に関する、古今東西じゃなくて古今欧米の歴史と現状を概観するのにすばらしい本である。コミュニティがらみの研究をする人には必読書である。

特に、コミュニティ概念の歴史的な変遷は目から鱗であった。20世紀前半ぐらいまでの部分をメモとして以下にごく簡単にまとめてみる。

・古代ギリシアではコミュニティは都市国家そのものであり、社会的関係、政治的関係、経済的関係も含み、契約的な絆で結ばれていた。

・ローカルで排他的な性質を持つギリシア的なコミュニティは、市民権に基づいて普遍的な人間のコミュニティを建設したローマ帝国、さらにキリスト教思想によって世界中のキリスト教者の普遍的なコミュニティという理念が現れた。

・17・18世紀の啓蒙期においては、コミュニティは専制国家に対峙する市民社会そのものであり、市場を基礎とした経済関係も含み、国家を必要としない純粋で汚れのないユートピア的な社会的絆であった。

・19世紀に啓蒙主義が衰退してくると、コミュニティの概念は各種のイデオロギーと密接に結びつき、そのイメージも多様になる。ナショナリストにとってはコミュニティは共通の歴史、言語、慣習を持つ原初的な文化共同体であり(後に全体主義の台頭に伴って国家と社会が融合しているトータルコミュニティとして捉えられるようになった。)、共和主義にとっては自己統治する市民共同体という古典的な理想、共産主義、社会主義、無政府主義にとってはこれから達成されるべきユートピア的な理想である。

・20世紀になるとモダニティの到来によって社会がどこかよそよそしい薄いつながりと感じられるようになったことを反映して、啓蒙期にはコミュニティが国家に対峙する社会そのものであったのに対し、社会に対抗する伝統的な濃い価値に基づく関係として捉えられるようになった。有名なテンニースのゲマインシャフトはコミュニティ、ゲゼルシャフトは社会に対応する。

・その一方で、コミュニティを脱伝統的にとらえる見方も現れた。デュルケムはモダニティにおいては市民権に基づく新たな有機的な連帯が現れ、個人主義の行きすぎの弊害を抑える可能性があると見た。この考え方は、プラグマティズムと結びついてシカゴ学派の都市コミュニティに関する一連の充実した研究成果につながっていく。

・また、ターナー等の文化人類学の研究成果を反映して、コミュニティを一義的で固定的な制度ではなく、関わる人々の解釈にゆだねられた象徴的な存在と捉える見方も現れた。一定の行動様式はあってもその意味は成員の間で異なるものでありえるため、流動的で変化に対して開かれているシステムとしてのコミュニティ観である。

現代のコミュニティ概念は、あまりに枝葉に分かれていてここに書ききれないので興味がある方は本書を読んでいただきたいが、ここ20年あまりの間に再び大きな変化が起きている。その原動力は二つあり、一つはグローバル化、もう一つはコミュニケーション・テクノロジーの発達である。

人々の流動性が高まり、生れながらの帰属ではなく偶発的で複数の帰属を持つようになり、自己の一貫性より多様性と差異(自分の中でも、他者に対しても)が強調されるようになった。このような状況下で著者は、言語、対話の重要性が増し、社会関係はコミュニケーションのプロセスによって支えられていると見ている。情報通信技術の発達と普及は、このプロセスを助け、新しい形の近接性を生み出す。著者の現代コミュニティ観は、変化への柔軟性、多様性の保持、創造性という意味では楽観的である一方で、その持続性には懐疑的で、場所と結びついた旧来のつながりに取って代わるものにはなっていないとみている。

最後の場所とのつながりの喪失という論点については、訳者の山之内氏は特定の場所と結びついた身体感覚を伴う結びつきの重要性を見直す動きが見られることを指摘している。身体感覚は、社会関係や自然と人間の関係を維持するためだけでなく、人間の創造的な行為は不可欠な要素だからだと思う。情報通信ネットワークが発達してもイノベーションがある特定地域に集中する傾向が見られるのは、創造的な協働活動には共通した身体的な体験が求められるからではないか。このあたりは伝統的に心と体を別のものとして捉えてこなかった東洋の伝統を生かして世界に発信したい分野である。

また、1章1節の書き出しにもある、コミュニティは古くからローカリティとグローバリティの両面性を持つ概念であったという点は、パットナムの結束型社会関係資本と橋渡し型社会関係資本、GranovetterのStrong tieとWeak tie、バートの空間的間隙スモールワールドネットワークなど繰り返し示されてきた、薄いつながりと濃いつながりの2類型と密接な関係があり、その含意はまだまだいろいろ考える余地があると思っている。

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