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November 2007

2007.11.30

福島真人「暗黙知の解剖」

福島真人「暗黙知の解剖:認知と社会のインターフェース」金子書房, 2001年.

レクリエーションと文化体験のために気軽に始めた韓国の伝統舞踊が最近自分の研究上のテーマに結びつくようになってきてちょっとしたフィールドワークと化しているのだが、ちょうどそれにぴったりの本を持ってきていた。福島先生はいまだお会いしたことはないのだが、私と入れ違いで国際大学グローバルコミュニケーションセンターにいらした方である。

人は言葉にできるよりも多くのことを知ることができる。(「暗黙知の次元」)

人が言葉にできないけれどもわかっていることをどうやって他の人に伝えるか、というのは間違いなく重要なテーマである。暗黙知と呼んでしまうと、形式的な知識(というよりも主に言語表現)がデータベースや紙の上にあるように、人間の意識下か何かに厳然と存在している実体のようなイメージがあるが、それが実体として現れてくるのは他の人にそれをわかってもらおうとするときである。つまり、「私」が保有する「知」ではなく、他の人に理解してもらうための行為=「知ってもらうこと」が焦点なのである。

だから、本書で暗黙知の問題を習熟、伝承、徒弟制、教育制度、分業、組織に関連付けて論じられているのはとても納得できる。

日常くり返される作業も、伝統的な儀式も、一見そのプロセスを全部明示的に書き記して他人に伝えることができそうな気がするが、そこには言語化できない広大な領域が存在する。

大量生産体制が現れてテーラーイズムが席捲した時代においても、分業化された現場の作業者にはマニュアル化しきれない複雑な理解と判断が要求されたという指摘は面白かった。機械化やコンピュータ化が進むことによってルーティンワークがなくなり、人間のやることがなくなる、あるいは、人間が高度な知的な活動に専念できるというイメージはどこか間違っているのだ。

どんなに機械化されても情報化が進んでも、仕事の性質や分業のあり方は変わっていくに違いないが、ルーティンはなくならない。技術や環境が激変するときに特に問題になってくるのは、同時代や後世の人々に理解してもらわなければならない、言語表現や明示的な表現にすることが難しい部分をどうやって伝えていくかということだ。

習熟の過程と暗黙知の関係はおもしろい研究課題である。本書では、何かのタスクに習熟する過程の初期においては、マニュアル的な知識が役立つが、習熟が進むにつれマニュアルではカバーできない細部、暗黙知的な部分が前面にでてくるという習熟のフラクタル構造を提示している。

それはそうなんだろうと思うのだが、たまたま私が一昨日書いたことに関連して、何かしら明示的な表現で伝えるということが(必ずしも言語でなくてもよい。例えば、技術屋の心眼で出てきた視覚表現)、暗黙的な部分の理解を喚起する機能を持ち、習熟や伝承の過程においてはそれがかなり重要な役割を果たしているのではないかと思った。明示されることで理解することと、暗黙的な部分を理解することの間には明らかな相互作用がある。

もちろん筆者の言うとおり内省(Reflection)には限界があるし、教える者と教えられる者のおかれている状況や能力にも依存してしまう。しかし、一定の状況装置を与えることで、内省をかなり良い確率で喚起することができるのではないだろうか。例えば本書で挙げられている「指先に目があるように踊れ」といった”わざ言語”による表現(161ページ)がそれほど一般性のないものだとは思えない。ある状況とセットで用意されればかなり強力に作用するのではないだろうか。

レイヴとウェンガーの正統的周辺参加あるいは実践コミュニティがいろいろな分野で注目されているのは、一つにはこの暗黙知を伝える状況作りに関係しているからだ。暗黙知を伝える状況として徒弟制が適しているというのはポラニーも暗に言っているように思う。しかし、徒弟制を厳密な弟子入り制度のようなものではなく、かなり拡大して日常でもよく見られる、本書で言う即興の徒弟制にまで広げるとしても、そうそうバラ色ではないのは確かである。

本書で実践コミュニティによる暗黙知の学習の問題点として指摘されているのは、忙しい現場では時間的にも失敗が許されないという点でも学ぶ余裕がない、新技術によるブラックボックス化、実質的に存在している徒弟制度的なしくみが組織の階層や分業構造に適合しない、現場の作業に密着している故に日常では十分通用するレベルの技能で止まってしまう(化石化)、ルーティンが強固に定着してしまっているために環境の変化に適応できない(熟練の煉獄)という点である。この他に、現代の若者が徒弟制的なものを受け入れにくくなっている、というのも挙げられるだろう。

これらの問題点を経営の観点から逆にみると、学ぶ余裕にあえて投資する、ブラックボックス化している部分を意識して教育プログラムに取り入れる、学習の過程を考慮して分業構造や権限の与え方を考える、といった方策が考えられる。(これは奇しくも、3次元CADの導入に関連して最近私が企業の方々に申し上げていることにぴったり重なっている。)

最後の熟練の煉獄と若い世代の気質に関しては、日本の製造業が構造的にまさに直面している問題であって、簡単に解決できる問題ではないが、日本企業や組織内やサプライヤーシステムの中に暗黙にしてしまったものを再び明示化する努力がその鍵を握っていると私は考えている。すべてを明示化できると考えているのではなくて、明示化する努力をすることによって、技能やルーティンがもともと持っていた機能を見直し、現在の状況の中で再配置する契機になるのではないかと思っている。

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2007.11.29

アジュンマ記念日

地下鉄で「アジュンマー(おばさん)」と呼びかけられた。

空いてる席を教えてくれようとしている大変親切な状況で、確かに私はアジュンマなのだが、言われてみると結構ショックだ。

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2007.11.28

基本は合理的にできている

韓国の伝統舞踊を習い始めて4か月を過ぎて最近だんだん、私の師匠はその踊りの腕と運命的といってよい経歴、そして何よりその発想と見識が凄い人だということがわかってきた。(師匠のチョン・ジュミ先生の話はいずれ改めてしようと思う。私の本業の研究上でもいろいろ触発され、今後何かしら発展しそうな雰囲気になってきているので、その話を含めて。)

このように凄い人に踊りの基本をゆっくり丁寧に、かつ非常に熱心に教えていただくという私にはもったいない体験をしているのだが、最近つくづく感じることは、基本というものは合理的にできている、ということである。

私の習っている踊りのレベルでは、個々の動作やポーズに難しくてとてもできないというものはなく、漫然とコピーするだけならば(私には無理だが)勘のいい人ならすぐできないこともないと思う。しかし、一つ一つの基本に含まれる、手や足の動き、重心のかけかたなどの諸々の要素がきちんとできていないと、流れるような動きにはならず、決して「踊り」にはならないようなのだ。

私は身体的な勘がとても鈍いので、この動きとこの動きがどうやってつながるのか、家でやってみるとはたと考え込んでしまうことがよくあるのだが、先生に教えていただいた基本の要素を忠実に再現してみると、まるで魔法のように自然につながるということを何度も経験した。基本はすごく合理的にできているのだ。

初歩的だが、例を一つだけあげると、一拍の3分の1ぐらいの間に体を180度回転させなければならない振りがあるとする。若い人や運動神経のある人ならば何なくこなしてしまうと思うが、中年でかつどんくさい方の私はこれを何となくやると体勢を崩してしまう。しかし、4拍1組の動きの場合は、2拍目と4泊目で重心を落とすという基本を思い出すと、回転は3拍目の頭であるから、2拍目で十分に重心を落とし、3泊目で上に向かって立ち上がる力で回り、4拍目のダウンで回転の勢いを吸収すればスムーズに無理なくできるということに気づく。もちろん、このようなことをいちいち言葉で考えているわけではなく、体で覚えたことを組み合わせて検討するわけであるが。

考えてみれば、舞踊だけでなく、あらゆる芸術、スポーツ、仕事の現場にも、たいてい基本の型というものがある。それらは長年の人智の結晶であり、新人は理屈抜きで基本の型をまず身につけることが求められることが多い。理由も説明されず何だか押し付けられるようでいやだと思うこともあるかもしれないが、実は基本の型にはちゃんと合理性があり、それを言葉で教えられるよりも、自分で発見することが重要なのだと思う。

研究者になる訓練も同じで、私は学生にまずオーソドックスな形式の論文を書くことをすすめる。発想は斬新であるほどよいが、それを実証し、他人に説得する作業は、とりあえず基本の型でやってみるのだ。本人が基本の型に含まれる合理性を深く理解してはじめて、必要ならば型から外れていけばよい。

伝統舞踊においては(少なくとも私の師匠の考え方では)基本はくずさないが、ちゃんと百人踊れば百様の踊りになり、その中でもひときわ個性的できれいなのは、基本に対する深い理解がある踊り手なのだと思う。

初心者にこのようなことを気づかせてくれるのが私の師匠の凄さである。

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2007.11.15

拾う神

韓国での研究生活も3分の2を過ぎ、大方は上々だが、やはり慣れない異国でのフィールドワークはなかなかうまくいかない部分もある。

しかし、そういうときにはあまり落ち込まず自分のできることをやっていると、救いの手をさしのべてくださる方もまたたくさんいる。ありがたいことである。今日は、そういう方の一人、建国大学のイ・チェソン先生にお会いしに行った。

前回、カメラを忘れて写し損ねた建国大学のシンボル、牛の像。

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2007.11.13

ヘッドフォンと老眼鏡

最近、複数の知り合いが外界の音を遮断してくれる高性能のヘッドフォンを買ってよかったとブログなどに書いているのを続けて読んだ。そういえば、息子も誕生日プレゼントにヘッドフォンが欲しいと言った。(ちなみに去年のクリスマスプレゼントは外付けハードディスクだった。おたくめ。)

ふと思った。そういえば、私にはヘッドフォンがいらない。集中するのに、まわりがかなり騒がしくてもあまり気にならない。電車の中でも平気で仕事ができる。ソウルの地下鉄で蛍光マーカー片手に本を爆読しているとちょっと異様らしく、何をしているのかと話しかけられたりする・・・

ヘッドフォンを買ってよかったと言った人はすべて男性だし、男性と女性の脳の構造に関係があるのかもしれないが、私の場合ひとつには、研究者の道に入ったときの環境によるのかもしれない。

会社の仕事をやめてMBAに入ったとき子供は8か月。居間のど真ん中で、周辺の状況に気をくばりつつ、勉強せざるを得ない。子供が妨害してきても(当然する)、赤ん坊のうちはすべて受け入れなくてはならない。よく床に寝転がって、子供を背中に乗せてケース教材を読んでいた。並行情報処理能力が鍛えられもするはず・・・今では子供のほうが構ってくれなくなったが、いまだに家での仕事は居間でしている。

先日買った老眼鏡の扱いにちょっと困っている。PC画面や紙面を見るとき老眼鏡をかけているとずいぶん楽なのだが、そのまま視線を遠くに移すとクラクラする。老眼鏡をかけてみて初めて、自分は集中して仕事をしているときでも合間合間に窓の外をみたり、そのあたりを歩き回ったりしていることに気づいた。ほとんど意識しないでやっていることなのでいちいち眼鏡をずらしたりしていられない。不便だー。

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2007.11.12

Winograd, T (eds.)「ソフトウェアの達人たち」

Winograd, T (eds.) "Bringing Design to Software," ACM Press, 1996.

(邦訳:瀧口紀子訳「ソフトウェアの達人たち」ピアソン・エデュケーション)

この本は、以前妹尾大先生に紹介していただいて以来、私の座右の書になっている。ソフトウェアのデザインがテーマだが、広い意味でのデザインについていろいろ考えさせてくれる良書である。編者は「コンピュータと認知を理解する」のウィノグラード。

広い意味での良いデザインは、

価値観や必要性というコンテキストの中で人に役立ち、クオリティと満足のいく経験を生み出す

ユーザーとその世界の間のインタラクション、そしてデザイナーとその素材の間のインタラクション・・・最も重要なのは、このふたつのインタラクションの間のインタラクションである。(イントロダクション)

このように広くとらえると、革新的な製品を生み出すのも、創造的な仕事をするのにも、新しい技術を使いこなすにも、デザインの視点は欠かせないことになる。概念的につきつめているタイプの本ではないが、経営に関する社会科学が見過ごしがちな大事な視点が含まれているように思い、ことあるごとに読み返している。

本書には研究者と実務家から多数の著者が参加しているのに関わらず、優れたデザインを生み出すにはどうしたらよいかという問題に関してメッセージはほとんど一貫している。

・概念モデル、ユーザーが自然に想定できるやり方をデザインする

伝統的に使われてきた物理的なモノのデザインでは意識しにくいが、ユーザーがそれが何であるか認識し、どのように操作すれば思いどおりに動かせるのかを直感的に理解できるようにするためには、優れた概念モデルが必要である。(ノーマン「人を賢くする道具」「誰のためのデザイン?」も参照。なお、ノーマンは本書にも書いている。)

本書を読むと今日のマックやWindows PCの源流となったゼロックスPARCによるスター・システムのユーザーインターフェースは、ユーザーとのインタラクションしながら概念モデルを驚くほど意識的にデザインしたのだということがわかる。

コンピュータ・メタファーは、・・・ユーザーに何かを思い出させるためではなく、思い当らせるためのものです。(2章)

この違いは重要である。何かというとヘルプやメニューを出すことがユーザーフレンドリーなのではないのある。

家計簿ソフトのクイッケンはカレンダーという概念モデルが適していることをつきとめて成功を博した。(13章)スプレッドシートがビジカルクから始まってLotus 1-2-3、エクセルに至るまで受け継がれ常に主要なアプリケーションであったことは優れた概念モデルのパワーを証明している。(11章)

また、アプリケーション間でコマンドの共通性を持たせることなどもユーザーに思い当らせるのに広く使われている有効な方法である。

概念モデルやユーザーになじみのあるスタイルは、本書ではデザイン言語(4章)、ジャンル(7章)とも呼ばれており、一貫したデザイン言語を提供することはユーザーに余計な負担をかけないだけでなく、一貫したイメージを作り出し、また、ある種の業界標準となることで企業の競争力にもつながる。

・ユーザーとのインタラクション

本書の豊富な事例には、ユーザーの声の聞き方として伝統的なフォーカス・グループインタビューやユーザーにプロトタイプを実際に操作してもらうなどの方法が出ているが、この方法が決定版というものはなく、おそらく一番大事なのはデザインを担う人が観察者としての目を養い、ユーザーと対話する技を持つことであろう。

その際のポイントとして挙げられている、ユーザーが使うその場独特の用語、標準的なやり方、使っている道具、例外事項、共通した関心や問題点に着目する(6章)というのは、まさに経営学分野でのインタビューでおこなう際に留意する点そのものであって初めて読んだとき少し驚いた。広義のデザイナーには、社会科学の方法論の教育がなかなか有効なのではないか。

・素材とのインタラクション

ユーザーとの対話の一方で、デザイナーは素材とも対話しながらデザインをすすめていく。素材と対話することはエンジニアも同じだが、自ら表現したものが自分にとって想定外である状況を重視する点が異なる。

デザイナーはあらかじめ答えを頭の中に蓄えていて、実際にはそれを翻訳するだけというようなことは滅多にありません。たいていは、前進的な動きの中にあって、作業をすすめながら判断を下しているのです。・・・中でも私が関心を持っている判断は、「バックトーク」と呼んでいますが、「こんな風になるとはおもわなかったけれど、何ともおもしろい」というような、まったく予期しないものを発見することです。(9章)

著者たちが、エンジニアリングは基本的に失敗は許されないが、デザインは失敗も大いにあり得、またそれを許容しなければならないとみているのも興味深い。多くの失敗の中から優れたアイディアを拾い上げるためには、デザインはプロジェクトの初期に十分遣唐使、その段階ではあまり集権的な意思決定をおこなわない。

・プロトタイピング

ユーザーや素材との対話を有効に機能させるためには、未実現の製品を何らかのかたちで表現するプロトタイプが必要である。スペックが決まれば、すべてをトップダウンで計画できるものと思ってしまうのは明らかに間違いであり、反復発展的にプロトタイプをつくりながらユーザーや素材とのインタラクションを繰り返していく。

どんなデザインの革新も、互いに相容れない二つの要素が関わることから生まれる。ひとつは新しいアイデアを記述し定義したスペックのリスト、もうひとつはそれらを内包しようとしているプロトタイプである。プロトタイプはしばしば、われわれが望んでいることが非現実で間違っていると念を押す。反対にプロトタイプによって、デザイナーの夢がまだまだ十分でないことが明らかになる。(10章)

プロトタイピング・サイクルは製品開発の定番の概念だが、ここでは、問題解決だけでなく、何をつくるべきかの方向性を定めるインタラクションがより明確になっている。同じようにプロトタイピングがおこなわれていても、スペック主導の場合とプロトタイプ主導の場合ははっきりと異なるというのが10章を書いたシュレーグの主張だ。

・専門職としてのデザイナー

建築に施工技術者以外に建築家がいるように、ハードウェアやソフトウェアにもエンジニアだけでなくデザイナーが必要だというのも本書でほぼ一貫した意見のようである。もちろんここでいうデザイナーは意匠デザインだけをおこなう工業デザイナーよりはるかに広範な役割を果たす。

デザイナーとエンジニアの違いは何か。エンジニアは分析的な視点を持ち、既存の枠組みの中で生じた問題を解決する役割を果たし、デザイナーは既存の枠組みを超えようとする(8章)。もちろん、この2分割は少々乱暴であって、優れたエンジニアや科学者は大なり小なりデザイナーとして役割も果たすが、実際にうまく働くものをつくるという使命があると、技術的な革新はともかく、ユーザーや社会のコンテクストにおいて今までにないものを考えることを阻害する側面があるのは確かだろう。

したがって、デザイナーには、エンジニアよりもさらに、アートの部分、本能、勘などを全面に押し出し、論理のつながりでは到達できないある種の飛躍が求められるが、それは社会から切り離された独創性ではなく、あくまで社会的なコンテクストの中で新たな意味をみつけるための飛躍である。

(アーティスト・)デザイナーの基本的な訓練と技能は、文化的、情感的な意味を探り、それを生み出してコントロールすることである。(3章)

・チームとリーダーシップ

優れた飛躍は多分に個人の能力に依っているが、デザインそのものは多様な人間のさまざまな視点のインタラクションから生み出される。アイディア出しをする初期の段階では、なるべく人数を増やした方がよい(8章)という見解は、なるほどと思った。その後、リーダーシップやユーザーとのインタラクションによって絞り込んでいくのである。

リーダーは、自動車のような重量級マネージャーというよりも、その場で自然と浮かび上がってくるようなイメージである。(8章)どうつくるかよりも何をつくるかがより重要な場面では、リーダーシップのあり方も変わってくるのだろう。

・良いデザインを評価できるか

客観的に測定することが難しいからと言って、デザインの評価は完全にパーソナルなものではない。プロのデザイナーの間では、良いデザインというものの(少なくとも最低限度の)認識が共有されているものらしい。その尺度は生来のものではないが、個人の中で育つのは何年もかかる(9章)。

学生に良いデザインだと思うものを持ってきてその理由を説明するように言うといろいろ個々の性質に言及しがちだが、

そうした性質は必ずしも中心的なのではなく、そのものが全体として持っているデザインに何かがあったのです。(9章)

この何かをつかむ訓練が必要だと言うのである。

私たちの分野で、良い論文とは何かを知るのに訓練がいるのとかなり通じるものがあるように思う。先日、ワークショップで学生が韓国語で研究発表しているのを何となく聞いていたとき、私には(言葉の問題で)詳細はまったくわからないのだが、その日一番の賞をとった論文がどれだかはわかった。何かそういうものなのだ。

=ソフトウェア独特の問題=

以上の原則は、ソフトウェアだけでなくハードウェアと両者の混合物全般にも通じるものである。ただ、ソフトウェアの比重が高いものに独特の問題があるようにに思う。以下に、必ずしもはっきりと書いてあることではないが、私が本書を読んで考えたことを少しまとめてみる。

・既存の概念モデルがない、あるいは、準拠する概念モデルを間違いやすい

自動車には自動車、洗濯機には洗濯機のかなり確固とした概念モデルがある。もちろんこのようなモノでも新しい概念をつねに取り入れて進化していくのだが、既存の概念モデルの比重の大きさはソフトウェアの比ではない。

概念モデルを作りださなくてはならないということは、デザイナーの役割、プロジェクト初期に発想を広げる段階の重要性がより大きいということである。ソフトウェアの比重が高まるにつれ、組織体制の在り方や道具立てが全く変わってくる可能性があるのではないか。

準拠するモデルを間違えやすいという点も結構深刻である。システムを作る人は、たとえ丹念にユーザー環境を調べていても、明示化されやすいプロセスに目が行ってしまい、重要な役割を果たす周辺状況を見落とすことが少なくない。(14章)このことは、企業の情報システムがうまく働かない主要な原因になっているような気がする。

消費者向けにも、例えば、伝統的に形成されてきた新聞の紙面の形式を電子化するだけで電子新聞になると思うのは間違いである。紙面にはディスプレイに移し替変えただけではこぼれおちてしまう、読者の認知にとっては重要な周辺的なリソースが存在している。(7章)

・素材との対話、ユーザーとのインタラクションにおいて、内部表現の制約が少ないことがかえって仇となる

内部的にさまざまな物理特性の制約を受ければデザイナーやユーザーからの要求があった場合自然と選択肢が絞られるが、ソフトウェアの場合、その柔軟性がかえって仇になって潜在的な選択肢が多すぎてしまい、何をつくるべきかにフォーカスが絞れない。既存の概念モデルの弱さとの相乗効果で、。

また、ソフトウェアの開発では、プロジェクトの途中でハードウェアでは考えられないような大幅な変更が繰り返されることは珍しくない。原因は、開発を委託してきたユーザーの要求、並行するハードウェアの開発状況のしわ寄せなどいろいろであるが、一見対応可能だと思えてしまうところに落とし穴がある。なるほど、ソフトウェアには高価な金型はないが、プロジェクト初期をすぎた人月はほとんどサンクコストになってしまう点は同じである。

コストに見合った範囲で製品の価値を高める変更となしくずし的な変更は、現実にはなかなか難しいものの区別する必要がある。デザイナーは発想を拡張する役割なので、そのバランスをとるのはコーディネータ的な役割をする別の人のほうがよいかもしれない。

・プロトタイピングの仕方が確立していない

ハードウェアの開発に比べ、試作やモデル、最近では3次元CADモデルなどにあたるプロトタイプの作り方、使い方が十分に発達していないのかもしれない。

ソフトウェアのプロトタイピングの技法はいろいろあるがソフトウェアだからといって必ずシステムでおこなう必要もなく、特にユーザーとのインタラクションには「ペーパープロトタイピング」のように案外ローテクがよいのかもしれない。

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2007.11.11

古宮の紅葉

景福宮

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昌徳宮

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紅葉は韓国語でタンプンというが狭義にはカエデのことを指す。秋に葉っぱの色が変わる木をまとめてもみじ(=カエデ)と呼ぶのと同じですね。

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2007.11.04

Myerson, G. 「ハイデガーとハバーマスと携帯電話」

Myerson, G. "Heidegger, Habermas and the Mobile Phone,"Totem Books, 2001.

(邦訳:武田ちあき訳「ハイデガーとハバーマスと携帯電話」岩波書店)

前回のレビューの後、ハイデガーとハバーマスつながりで読んだが、あまり共感できなかった。現代のテクノロジーと社会環境が人々のコミュニケーション不全を招いている面があること、大量のデータが流通しているからといって、人間同士の理解を伴うコミュニケーションが促進されているとはいえないことはその通りであるが、携帯電話がその象徴であるとはあまり思えない。情報技術の中でも特に携帯電話は親密な人間関係をさらに強化するような使い方がされる傾向が強いという認識を持っているからだ。

現状認識の違いの原因は、ひとつには、文化差があるかもしれない。以前に少しだけ携帯の利用の国際比較調査をしたことがあるが、欧州、米国に比べてアジアでは、個人の自由を確保しようとする使い方やデータ送受信の道具としての使い方よりも、他者とのつながりを強化するコミュニケーション志向が強いという印象があった。

ケータイの使われ方はコミュニケーション志向が強いといっても、会って話すコミュニケーションとは数々の興味深い特性の違いがあり、ケータイ・コミュニケーションがこれだけのシェアを占めるようになるとその影響はとても大きいと思う。しかし、それが本来のコミュニケーションを担っていないと断定すると、もっと深い分析が阻害されてしまう。

邦訳の大澤真幸氏の解説が秀逸である。詳しくは読んでいただきたいが、自らに対して他者になるという問題に関する哲学パズルに、電話という道具を入れてみるとどうなるか、ケータイの場合はどうかという思索をおこなっていて、これは大変おもしろかった。

大澤氏がケータイの特性として指摘しているのは、近接性の感覚の希求をより強めるということである。例えばケータイを通じて友達と24時間常につながっているという感覚がないと落ち着かないというような、少なくとも日本の若者においてはよく見られる現象である。

ケータイによって他者が「私」の極めて近い位置にいきなり接続してしまうことが何をもたらすのかはまだはっきりとはわからない。

私は、ケータイやSNSで見られる閉じられた密接な関係性を見ていると、テレビの「あいのり」という番組をいつも連想する。もともとは互いに知らない若い男女のグループがバンに乗って世界を旅をすることによって、恋をしたりさまざまな人間関係をくり広げていくのを観察するバラエティなのだが、世界中を旅しているというのに、彼らの関心はあくまでの車の中の人間関係なのである。互いのコミュニケーションの仕方は概して礼儀正しく純情で、互いのちょっとした感情の行き違いや揺れが彼らにとって大事件になる。

正直、息苦しくてかなわないと感じてしまうのだが、きっとネガティブな面だけではないのだろう。

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2007.11.03

Winograd, T. and F. Flores「コンピュータと認知を理解する」

Winograd, T. and F. Flores, “Understanding Computers and Cognition: A New Foundation for Design,” Ablex, 1986.

(邦訳:平賀譲訳「コンピュータと認知を理解する」産業図書)

下記は、本書の世界観をまとめてみたものである。著者が用語の定義自体を放棄してしまっているのでまとめるのはすごく難しくて、適切かどうかは心元ないのだが。

・我々は常に状況の中で行動するように設定されており、そこから完全に離脱して孤立した観察者として振舞うことはできない(被投性)。我々の内在的な仮定を、すべて明示することはできない。

・行為の多くは特定の計画や推論にそってなされるのではなく、社会的なインタラクションの中で生み出され、相互結合された活動パターン(共感的領域)が形成される(構造的カップリング)。

・言語は行為であり、(他者に対する一種の約束である)コミットメントを生み出すため、人間が共感領域を形成する際に重要な役割を果たす。言葉の意味は個人のレベルで付与するものではなく、社会や文化に根ざし、発せられた言葉がコミットメントとして扱われることから生じる。

・したがって、字義的意味、というものはない。言語と客観的な対象や属性、関係を厳密に一対一に結びつけることは不可能である。

本書ではコミットメントとしての言語がかなり強調されている点についてはやや特異だと思うが、このような世界観は、現象学や言語行為論などの哲学分野はもちろん、社会学や近年では状況論と呼ばれる分野でいくぶん実用的に論じられている。

このような見方に立つと、なぜ、ほとんどいつも、ユーザーが望むような情報システムを開発することができないのかがよくわかる。ユーザーと開発者が前提としている仮定をすべて明示することがそもそも不可能であるからである。

私は状況論的なものの見方に大変共感を覚えているのだが、これをマネジメントやツールの設計の指針などにつながる研究につなげようとするとなかなか難しい。例えば、前に私が「マインズ・アイ」のレビューで不確実性の見積もりの難しさについて述べたは、上の段落と同じ趣旨をウィノグラードの言う典型的な合理主義的伝統で言い換えたものである。合理主義的伝統にのっとって表現した方が他の研究者には理解されやすいし、扱いやすいからだ。

その点、本書は、コンピュータ・システムのデザインという極めて実用的な課題に対してこの難しい世界観を適用することに正面からとりくんでいる。本書の出た時点はもちろん現在においてもまだまだ発展途上の分野ではあるが、私も見習って正面からとりくまなくてはと思う。

本書からコンピュータ・システムのデザインの成功要因として読みとれるものを拾ってみる。

・人間の行動の完全な明示化し、それをシステムに移そうとしてはいけない。「人間の行動(特にコミュニケーション)のための道具」としてデザインしなくてはならない。

これは本当にそのとおり。システム屋さんはすべての行為の明示化は可能だと素朴に思っていることが少なくないが、そのような考え方で特に大規模なモデル化をしようとすると必ず失敗するというのが私の持論である。

しかし、人間の行動のための道具とは具体的に何か。それ以上踏み込んだ理論は確立しておらず、これから取り組んでいかなくてはならない課題である。

・システム化領域を絞り込む。

実はこれが本書から一番実用的に学べることなのではないだろうか。システムの範囲を非常に狭くすれば背景仮定はほとんど無視できる。

また、単に範囲の狭さを問うのではなくて、絞り込む次元を定めることが重要なのかもしれない。うまくある次元を絞り込めれば、他の次元からみれば汎用性のあるシステムができる可能性がある。システム領域の絞り込みは、人工物のアフォーダンスであると言っても良いかもしれない。

・デザインの着眼点は、あたり前になっている事象ではなく何らかの原因で人々があることを意識せざる得ない状況になるブレイクダウンにある。

著者はブレイクダウンを契機にしたコミットメント・ネットワークこそが組織の編成原理であると論を進め、組織におけるコンピュータ・システムの具体的な役割としてコミットメント・ネットワークを透明化(可視化)することを提唱し、実際にソフトウェアを開発している。

コミットメント・ネットワークとしての組織とその可視化という着眼点はとてもおもしろいのだが、まだ全体の一部分にすぎないと私は思う。また、あまりにも言語に焦点を当てすぎている。言葉にならないリアリティの理解という領域が広大に存在し、特に技術開発のような分野ではそれらが重要な役割を果たしているからである(「技術者の心眼」「暗黙知の次元」)。

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ところで、合理主義的伝統、というより、論理としての言語の重要性は今後も決して薄れないと思う。たとえ、われわれが純粋な意味で論理としての言語を使うことができないとしても。私は、ちょっと極端な考えかもしれないが、「道具としての論理」だと考えればよいと思っている。

およそ学会で使われる言葉は客観的に厳密に定義され論理的であらねばならないとされているが、人間である限り必ず背景仮定が存在し、完全に客観的で論理的であることは無理である。しかし、できるだけ客観的で論理的であろうとする努力が思索を深め、さまざまな人が関わり合って研究成果を進化させることを可能にしてきたのだ。論理の完全性よりも努力そのものに意義がある。

すべての人は背景仮定の影響を受けていることと、言語にならない領域の重要性を常に意識しつつ、隠された構造をできるだけ明示的な論理の世界に引っ張り出すことが研究者の仕事だと思う。そういう意味では、本書も私に言わせれば合理主義的伝統にのっとっているし、それは決して悪いことではない。

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2007.11.01

キャンパスの秋

ソウル大学のキャンパスは秋もたけなわ。

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