下條信輔「意識とは何だろうか」講談社、1999年.
このところたくさん本は読んでいるのだがレビューする暇がなく、ただ今日はあまりにも疲れて論文書きをあきらめたので、レビューぐらいできるかなと思いついた。
本書は、題名の意識とは何かという問題に対して答えるよりはむしろ、錯誤と何か、記憶とは何か、心と体は切り離せるのか、無意識と意識の関係、そして心と脳、身体、環境の関係についての見方を提供してくれる。
人間が客観的に間違った認識をしてしてしまう錯誤は、人間の進化の歴史、生まれてきてからの環境といった来歴が刻み込まれた脳が、今現在の環境についていけないため起こるというのは納得できる。錯誤は自分内の古い前提に基づいた世界では何も間違いではなく、客観的に、という言葉が示すとおり、他者がいて、他者と共にある環境というものがあって初めて生じる。これは、認知上の錯誤だけでなく、行動経済学でもでてくるように、非合理な判断をしてしまう人間、という問題にそのまま通じている。経済学では論理設定としてデフォルトが合理的な人間であるから、なぜ非合理的なんだという問いかけが出てくるのだが、それはわれわれが共通認識だと思っている他者の視点からの非合理なのであって、その人の脳の来歴に照らせば正しいことをしているわけである。
記憶は、脳の中に何らかの形で貯蔵されているデータで、思い出すということはそれを取り出すことと考えるといろいろなことが見えなくなる。記憶は外部環境や身体の状態に密接に結びついたパターンであり、その人の脳の来歴に独特なものである。SFのように人から人へそっくり記憶を移し替えるということはきっとできない。
SFといえば、人間の脳だけを取り出して容器の中に入れて電極でつなぎ、普通に思考したり生活しているかのようなイメージを持たせるというのも、記憶、もっといえば心が身体や環境に密接に結びついて成り立っているということを考えればたぶん無理なのだろう。そういう意味では、心は脳の中だけにあるわけではない。身体中すみずみまで、身体をとりまく環境にまで及ぶ結びつきの中にあるのである。
本書にはっきりと書いているわけではないのだが、たぶん意識というのは、心と身体、環境の間に矛盾がない範囲で生きている生物には生じないのだろう。環境を操作したり、未来を予測するようになったときに、古い来歴だけでは不十分になったのだろうと思う。本書では子供が発達する過程で他者の心を理解できるようになる時期があることが紹介されているが、この世に自分とは違う原理で動くものがいることに気づき、他者のいる世界はどのように動くのだろうかと予測し操作するようになることが意識と言語を発達させる原動力になるのだろう。
無意識で満たされていた心に意識と言語が生じたために人類は文明をもつことができたことは確かなのだが、どう考えても本家は無意識なのである。ほとんどの学問分野が意識的で、論理的に言語表現ができる領域をものごとの成り立ちのデフォルトにしていることの限界と歪みを感じている今日このごろである。意識も言葉も論理も大事だけれども、無意識や非言語や論理的でないこととは生物である限り常に裏表であり、切り離せないのだ。
ところで、本書に書かれていることの中で、人間が何かを意識をするときというのは、行動が強制的にストップされてしまったとき、自分の行動の成果を評価するとき、別の視点で自分を客観的に見るときで、これは人間が自分の自由意思が妨げられたと感じたときと同型であるというのは興味深い指摘であった。他者に強制されたり、自分の成果を外的要因に帰したり、客観的な分析をすると、人間は自分は自由ではないと感じるである。意識的になることは不自由になること。これは深い。
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